【早川書房】
『これからの「正義」の話をしよう』
−いまを生き延びるための哲学−

マイケル・サンデル著/鬼澤忍訳 



 私が日本という国で生まれ、日本語を母語として育ってきたという生い立ちは、私の自由意思によって選択されたものではない。だが、そうした意思とは無関係に、私が日本人であるという事実は覆ることがない。ある人はその事実に違和感をおぼえるかもしれないし、ある人はその事実に愛着を感じるかもしれないが、私の個人的な感情としては、自分の生まれ育った環境について、ある程度の愛着があるというのはたしかなことだ。少なくとも、もし外国の地で日本人と遭遇したとしたら、彼が日本人であるという理由だけで酒の一杯も飲み交わしたくなるくらいには、日本という国が好きだし、日本人であることにも愛着があると言うことはできる。

 だがそのいっぽうで、たとえば第二次世界大戦時における日本軍の、東南アジア諸国への侵略行為や、いわゆる「従軍慰安婦」問題について、日本人であるという理由だけで謝罪と賠償をしなければならないという論調に触れるときに、「なぜ自分の世代が?」という疑問が生じてしまうのも確かである。自分が直接選択したわけでも、参加したわけでもない過去の戦争の責任を、なぜ取り続けなければならないのか、という思いの根底にあるのは、おそらく個人の自由意思という概念である。他人の自由を束縛しない限り、個人はどこまでも自由であるべきだという概念は、裏を返せば自分の選択に対してのみ責任がともなうということでもある。それが戦後日本の教育の成果なのかどうかはなんとも言えないが、この個人の自由と自己責任という考えは、少なくとも私にとってかなりなじみ深いものとなっている、ということを意味する。

 日本という国の国民であること、日本人というカテゴリーに属していることに、ことさら不満があるわけではない。だが、その国の過去の罪を自分に背負わされることを理不尽に感じてしまうのは、どういうことなのだろうか。米ハーバード大学の哲学教授である著者の講義を本にまとめた本書『これからの「正義」の話をしよう』は、あくまでアメリカの「正義」をめぐる哲学上の問題を取り扱ったものであるが、その主軸となっているテーマは、日本にとってもけっして無関係なものではない。

 旅の目的は――(中略)――読者にこう勧めることである。正義に関する自分自身の見解を批判的に検討してはどうだろう――そして、自分が何を考え、またなぜそう考えるのかを見きわめてはどうだろうと。

 およそ正義にかぎらず、抽象的な概念について議論するさいに重要なことのひとつとして、議論の対象をできるかぎり客観視する、というものがある。そのための方法のひとつとして著者が採用しているのは、講義を受ける者たちがなかば常識として受け止めていて、それゆえにこれまで疑問にすら思わなかったことに対して、あらためて注意を向けさせるというものである。たとえば、私が以前紹介した貴志祐介の『悪の教典』の書評でもとりあげた「トロッコ問題」。暴走するトロッコを直進させて五人を死なせるのと、別の線路にポイントを切り替えて五人を救う代わりに、その先にいる一人を殺してしまうのと、どちらを選ぶのが正しいのかという問いを本書でも発しているが、この思考実験で重要なのは、ある設問では「正しい」と思った判断に対して、別のアプローチではまったく異なった反応を示してしまうことにある。

 妊娠中絶は正しいのか間違っているのか、災害時の便乗値上げは正義にもとる行為なのか、同性同士の結婚は容認すべきなのか、金で自分の代理を徴兵させることは? 自分の腎臓を金に換えることは? 今もなお明確な解答のない問題について、ある単純そうな問いを出し、相手の意見を聞いたうえで、それと似たような、しかしまったく別の側面からの問いを発して、相手の主張が首尾一貫しないことに気づかせる、というのが著者の持ち味のひとつとなっている。以前、たまたまテレビで見た著者の公開講義もまさにそんな進め方だったことをおぼえているが、それは本書のなかでも基本的には変わらない。重要なのは上述の引用にもあるように、考えるきっかけを与えることにある。

 だが、本書はたんに考えるきっかけを与えるだけのものではない。「正義」について考えるさいに、私たちがその判断基準として無自覚に選んでしまいがちな要素についても、本書では明確にされている。ひとつは功利主義的な要素、すなわち最大多数の最大幸福を追求することをもって正義となすもので、おもに社会の福祉を重要視する人たちの基礎となる考え方である。もうひとつは自由主義的な要素、これは個人の自由を最大限にすることを正義とするもので、市場などの自由化を訴えるリバタリアンや新自由主義者たちがその拠り所とする考え方である。だが、功利主義が正義であると考えると、先の「トロッコ問題」を考えるさいにどうしても突き当たる道徳のジレンマをうまく説明することができないし、自由主義を正義とすると、今度は倫理上の問題とぶつかることになる。極端に言うなら、人の命にどれだけの値段をつけるべきかという議論に対して、私たちがどうしてもいだいてしまう抵抗感をどうとらえるべきなのか、という問題である。

 上述のふたつのアプローチは、いずれも古くから議論されてきたものであるし、いずれも私たちになじみ深いものではある。日本の過去の戦争責任に対して私が抱く違和感などは、自由主義への傾倒を示す好例と言える。だが、それを「正義」という概念に当てはめようとするときに、そこにぬぐいがたい違和感があることを、本書は気づかせてくれる。そしてその違和感は、他ならぬ他者との議論によってあきらかにされたものである。

 道徳をめぐる考察は孤独な作業ではなく、社会全体で取り組むべき試みなのである。それには対話者――友人、隣人、同僚、同郷の市民など――が必要になる。――(中略)――われわれは内省だけによって正義の意味や最善の生き方を発見することはできない。

 本書にはカントやジョン・ローズ、あるいはアラスデア・マッキンタイアといった、おそらく著者に影響をあたえたであろう哲学者の思想がいくつか紹介されているが、なかでも異色の哲学者として登場するのが、紀元前ギリシアの哲学者アリストテレスである。政治の目的が経済や福祉ではなく、何より「善き生」であるとした彼の思想のなかには、市民として政治に参加すること、正義と不正義といったラディカルな問題を討論することの重要性を説いているのだが、著者の講義の姿勢はまさにここから生まれたものではないかと思われる。そして、功利主義でもなく、また自由主義でもない第三の正義へのアプローチとしてとりあげた、美徳あるいは道徳という要素もまた、彼の「善き生」を追求する姿勢とつながっている。

 本書のようなタイトルの本が刊行されること、そして大学という場で「正義」がテーマの講義が世界的に注目されるという事実は、非常に興味深いことだ。なぜなら今という時代において、「正義」という言葉ほど薄っぺらく、うつろに響くものはないとさえ言えるのだから。戦争も、宗教も、それぞれがそれぞれの正義を旗印に、相手を殺戮することを正当化するというのは、私たちが自身の主観を生きる――あるいはそのなかでしか生きられないという相対主義の時代の証左でもあるのだが、本書はそうした相対主義を自覚しながらも、なおそこからの脱却を試みる、ひとつのアプローチを示していると言うことができる。『そうだったのか現代思想』の著者である小阪修平は、二十一世紀の哲学は「自己と道徳」がテーマになると説いていたが、まさにそんな流れを感じさせるものが、本書のなかにはたしかに存在する。人間としていかに生きるべきかという命題の、新しい視点の萌芽を、ぜひ感じ取ってもらいたい。(2013.06.14)

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