【文藝春秋】
『世界のすべての七月』

ティム・オブライエン著/村上春樹訳 



 私たちは、誰もが幸福な人生をおくりたいと望んでいる。少なくとも、自分は不幸なままでいいと思っている者はいないだろう。だがよくよく考えてみれば、幸福というのはずいぶんと抽象的な概念であって、何をもって自分が幸福であるとするのかは、けっきょくのところ人によって、立場によって、時代によって、思想や環境によって左右される、曖昧模糊としたものでしかない。

 人はわけのわからないもの、正体不明のものに対して恐怖や不安を感じずにはいられない。だからこそ、私たちははっきりとした基準や明確なものさしを何よりも求める。幸福という概念について言うなら、他の何かとの比較によって一応はその差異が見えてくる。たとえば、私は彼よりもお金持ちである、あいつは独身のままだが自分は美人と結婚した、といった具合に、ある要素の大小や有無の比較によって、自分はだから幸せであるとみなすのが一般的であるが、逆に、そういうことでしか自身の幸福を確認することができないのだとすれば、その幸せにいったいどれだけの価値があるというのか、とも思ってしまう。もっとも、何ものにも揺るがない絶対的な幸福条件があったとしたら、それはそれで胡散臭い感じしかしないのだろうが。

 本書『世界のすべての七月』は、アメリカのある大学の同窓会に集まった人たちの様子を書いた、群像劇に近い形式の物語である。西暦二〇〇〇年七月に行なわれたその同窓会は、その参加者たる一九六九年度卒業者たちにとっては、三〇年という節目の会となるはずだった。本来であれば、それは一年前に行なわれるはずの行事だったのだ。このちょっとしたズレ――そこには、七月という中途半端な時期の開催というズレも含まれる――は、そのままそこに集った人たちの、その人生におけるズレを象徴するものでもある。それは、各自がそれぞれ幸福であることを望みながらも、じっさいの言動においてかえってその幸福から遠ざかってしまうという、アイロニーに満ちたズレだ。

 その皮肉は今夜、あれこれ取り沙汰され、冗談のたねにされていたわけだが、いまだ完全に解読されていなかった。それでもなお、そこには何か特別な趣があった。――(中略)――学校には見捨てられたような、ちょっと薄気味の悪い印象があった。多くの記憶、多くの亡霊、同窓会にはお似合いかもしれない。

 物故者たちの追悼式を含む、二日間の乱痴気騒ぎの合間にそれぞれの過去、というよりは、彼らが大学を卒業してから歩んでいった過去の一部を、同不順で差し挟んでいく本書の形式は、その全体が同窓会において近況報告をしあう同窓生の雑談をイメージさせるものとなっているが、同窓会の席ではかならず話題になるはずの、学生だった当時の思い出というものは、ここではほとんど取りあげられていない。出席者はいずれも五十代の男女、もう若くはないが、かといって老齢というわけでもない微妙な年代の登場人物たちであるが、彼らが同窓生であるという以外に、個々にどのような関係性をもっているのかという点について、その差し挟まれるそれぞれのエピソードによって少しずつ明らかになっていくというのが、本書の大きな骨子となっている。

 彼らが歩んでいった人生は、じつに多彩だ。大リーグ選手として将来を、ヴェトナム戦争での負傷によって閉ざされた者がいるいっぽうで、その徴兵忌避のためにカナダへと逃亡した者がいる。そんな男について行くのをあきらめた女がいるいっぽうで、障害者となった男といったんは結婚した女がいる。ふたりの男性と正式に結婚し、両方の妻として今までうまくやってきた豪傑がいるいっぽうで、五十代にしてようやくたどり着いた結婚を、ハネムーンで解消してしまった者もいる。同じ不倫をするにしても、最終的には牧師としての職を解任されてしまった女もいれば、交際中の不倫相手(しかも同窓生)が溺死してしまうという事態のせいで、抜き差しならない状態に陥ってしまった女もいる。その多様な人生模様は、まるでアラベスクのごとく物語全体を彩るものであるが、その模様が何を意味するかを考察すること自体は、おそらくさほど重要ではない。だが、ひとつだけ確かに言えることがあるとすれば、十人を超える登場人物たちの、けっしてままならないその人生は、多かれ少なかれ男女の関係がその原因の一端を担っている、ということである。

 もちろん、ヴェトナム戦争という外的要因も大きく関係してはいる。アメリカがこの戦争に深く介入していくことがなければ、彼らの人生もまた大きく様変わりしていた可能性はある。だが同時に、登場人物たちを悩ませる男女間の問題というのは、戦争があろうがなかろうが、けっして割り切れない人類の永遠のテーマでもある。誰かのことが好きになる。一緒にいたいと望む。だが、年月の経過とともに人の心は変化する。愛がときに憎しみに変わり、失われていく愛をなんとかつなぎ止めたいという気持ちが生まれ、そして自分の行動が間違っていたのではないかと悩み、また別の異性を前にして心がときめく――ときには、愛への幻想ゆえに命を落とすことさえあるのだが、本書を読んでいくと、人と人との関係、とくに男と女の関係というものが、いかに複雑怪奇で、にもかかわらず求めずにはいられないものであるか、これでもかというくらいに実感させられることになる。

 本書に登場する同窓生たちの年代は、おそらく異性を異性としてとらえることのできるギリギリのラインである。そしてじっさいに、彼らは同窓会という独自の場において、男と女としての関係を模索する。そんな彼らのふるまいを「年甲斐もなく」と非難するのは簡単だ。だが、ごくふつうのそれとは微妙にズレたところで開催された本書での同窓会は、若いころの一時期を共有した者たちの集まりであり、だからこそ若者のようなふるまいをすることを許される場でもある。むろん、いずれは年相応の自分へと戻るときが訪れる。だが、それまではせめて、かつての男女としての自分でいたいという雰囲気が、そこにはたしかに存在する。

 はたして、それで何かが変わるだろうか。けっして変えられない過去を抱えつつ、またけっして長くはない残りの人生を思うとき、そこには何はともあれ、今を生きている人たちだけが味わうことのできる「何か」がある。本書が何より表現したかったのは、容易には言葉にすることのできない、そんな「何か」ではなかったかという思いが、私の心を深くとらえている。(2013.02.03)

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