【筑摩書房】
『現代日本の小説』

尾崎真理子著 



 ここ数年のあいだ、「日本文学」という言葉をほとんど意識しないまま小説を読みつづけている自分がいる。意識すると言っても、それほどご大層なものではない。過去においては河出書房新社の「文藝賞」がお気に入りだった関係で、いわゆる「J文学」系の作家が気になっていた程度のものであったが、そのくくりも最近はまったくと言っていいほど耳にしなくなった。純文学の登竜門である芥川賞受賞作を追いかけていた時期もあったが、近頃ではそれも手つかずのままになっている。候補作が挙がっても、直木賞はともかくとして、芥川賞候補の作家名については、そのときになって初めて知ったような名前ばかりで、そのときばかりは、自分が日本文学からずいぶん離れてしまったものだと思うのだが、かつて芥川賞作品を追いかけていたときも、文学うんぬんというよりは、現代社会を反映する、あるいは象徴するような作品という印象が浮かぶくらいで、それが過去の日本文学の歴史においてどのような位置づけとなるのか、といった部分まで突っ込んだ思索はしてこなかったように思う。

 私が大学生だった頃は、「戦後派」「第三の新人」「内向の世代」といった、近代からつづく日本文学の流れというものがたしかにあったし、多少なりともそうした流れを意識して作品を読んだり、勉強したりしていたはずなのだが、いったいいつから、作品と作家というひとくくりだけに重点を置いて本を読むようになったのだろうか。そして今という時代において、日本の現代文学はどんな流れのなかにいるのだろうか。私が今回紹介する本書『現代日本の小説』を手にとったのは、そうした疑問があってのことであるが、そこから見えてくる「現代日本文学」の形は、まさに形のない混沌としたものであり、それは「終わりの始まり」という、第一章のサブタイトルに象徴されるものでもある。

 しかし、本当に「時代に敏感」だったのは誰なのだろう。文学の言葉はこの時代の現実の感覚と、すでに遠く離れていたのではないか。そのことを否応なく作家と出版界が直面する契機となった現象こそ、八七年の村上春樹『ノルウェイの森』と翌八八年一月に単行本になったよしもとばなな『キッチン』の、空前絶後の快進撃だった。

 本書が論じようとしているのは、現代日本文学がどのような変化を遂げようとしているのか、ということであるが、著者が感じとっているのは、日本というひとつの国の「文学」という、それまで連綿とつづいてきたはずのカテゴリーが、もはやカテゴリーとして通用しなくなってきているのではないか、という懸念であり、そのターニング・ポイトンとして、上述の一九八七年を挙げている。四つの章で構成されている本書のなかで、前半の二章は村上春樹やよしもとばなな、あるいは小川洋子といった日本の作家の作品が、日本という国境を越えて広く世界で読まれているという、ワールドワイドな現象について、後半の二章はワープロやパソコンの普及、インターネットといった環境の激変によって、新しい作家が「日本文学」というくくりに縛られることなく、自由に作品を生み出そうとしている現象について書いている。そして、前者については空間としての「日本文学」という枠の解体を、後者については時間軸としての「日本文学」からの脱却を意味するものでもある。

 空間としての「日本文学」の解体とは、日本人が日本という国で、日本語を使って小説を書くという形式の解体を意味する。その例として日本文学の海外への浸透、とくに村上春樹の諸作品が海外で受け入れられていること、また村上春樹自身が、執筆の場所として海外を選んでいたという事実を挙げているが、こうした国境という枠組みにとらわれない作品の傾向は、中国籍をもち、中国語を母語としながら日本語の作品を書いている楊逸(ヤン・イー)が、『時が滲む朝』で第139回芥川賞を受賞したことが記憶に新しい。「日本文学」という枠組みを考えたとき、はたして楊逸の書く作品は日本文学とすべきなのか、それとも中国文学とするべきなのか、という問題が生じることになるのだが、従来のそうした枠組み――国をもととする分類――が、現代文学を語るにはもはや収まりきらないものとなっていることを、本書はいち早く見抜いていたと言うことができる。

 いっぽう、時間軸としての「日本文学」からの脱却とは、「文壇」という、文学関係者のゆるやかなつながりを保つ場の影響力が、作品を読む側である読者の感覚から乖離し、その存在意義さえ問われかねないものとなっていることを意味する。ワープロやパソコンといった機器の向上、さらには通信技術の進歩によって、作家と編集者が直接顔を合わせたりせずとも原稿のやりとりが成立するようになったいっぽう、作家どうしのつながりもまた希薄なものとなり、舞城王太郎のように人前に姿を表わさない作家が登場するようになったことや、演劇や音楽といった、別の分野からの作家が多く出現したこと、なにより金原ひとみと綿矢りさという、十代の女性が芥川賞を同時に受賞するという「事件」を例に挙げているが、こうした傾向は、最近では本屋大賞という、より読者に近い側から賞を出そうという気運と、それに作家側も寄り添う姿勢を見せていることからも見て取れる。それは同時に、芥川賞や直木賞といった「文壇」の権威とも言うべき賞の価値が、かつてのような勢いを失いつつあることを意味してもいる。

 一九八七年に起こった「空前絶後の快進撃」を起点に、いくつもの参考文献から作家や評論家たちの言葉を抜粋しつつ、読売新聞文化部記者として、とくに日本の文芸に深くかかわってきた著者の立場からの考察を掘り下げていき、またその後に起きた日本文学上の著名な出来事を取り上げていきながら、パソコンが台頭しインターネットが爆発的に普及していった現代の事象との関係性について語っていく――本書はたしかに前半と後半で、日本現代文学に対して異なるアプローチをかけているように思えるが、この両者はじつのところ、分かちがたく結びついていることが、本書を読み進めていくと見えてくる。じっさい、本書の論は最終的に、ぐるりと円を描くようにして、また一九八七年に戻ってくるのだ。そしてここから、「日本文学」というくくりは、時間的にも空間的にも解体されていくことになる。

 では、はたしてそれは、「日本文学」の終焉を意味しているのだろうか。あるいは、もっと別の形の「日本文学」が生まれようとしている、その過渡期となるものだろうか。本書のなかではあくまで変化の予感という形でまとめようとしている部分があるが、少なくともパソコンやケータイといった文明の利器が、文学というジャンルにどのような影響をあたえていったのか、あるいは今後あたえうるのか、を系統立てて考察しようとしている点は、それまでにない斬新な着眼点であるとともに、そうした着眼点なしに、もはや文学というものが語りなくなっているのか、ということを痛感させられる論でもある。(2009.09.25)

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