【角川書店】
『ジョーカー・ゲーム』

柳広司著 



 以前紹介した湊かなえの『告白』のなかで、私は「虚構」について語った。犯罪者が犯罪者としての責任を負って罰されるという社会制度を機能させるために、人間は自由であるという前提が必要だったという話は、私たちがあたり前のものとして受け入れている個人の自由というものが、絶対の真理ではなく、あたかもそれが真理であるかのごとく社会に浸透してしまっている「虚構」にすぎないことを示す例であるが、ここで言うところの「虚構」とは、かならずしもまがい物とか嘘とかいったマイナスの意味合いを帯びているわけではない。私たちが生きる人間社会は、少なからずそうした「虚構」によって成り立っているところがある。

 たとえば、道徳や倫理といった概念もまた、その時代を生きる人間によって規定されていくものであり、当然のことながら国によって、また時代によってそれが意味するものは異なってくる。私たちは、まるでそうした道徳や倫理を人智を超えた定説であるかのごとくとらえてしまいがちであるが、それはあくまで社会生活を営む私たちが、そうであってほしいと願っている「虚構」にすぎない。だが、もし道徳や倫理がそもそも嘘であると弾劾するなら、社会秩序は容易に崩壊し、今後私たちの生活に安寧という言葉は存在しなくなってしまう。そういう意味で、私たちは「虚構」のない世界には生きられない。道徳や倫理は誰もが少なからず持っているはずのものであるし、犯罪を犯した人は、やはりその罪を償って罰されなければならないのだ。

 人間は弱い生き物だ、というのは、私が書評をつうじて何度もくり返してきたフレーズのひとつであるが、それはけっきょくのところ、私たちが何かを拠り所にして生きているということに帰結する。家族や宗教、あるいは仕事や夢や信念といったものを支柱にし、それに寄りかかることでかろうじて今を生きている人たち――何かを強く信じるというのは、ときに強い意思の力を生み出すものであるが、同時にそれに囚われていると言うこともできる。本書『ジョーカー・ゲーム』は、表題作を含む五つの短編を収めた作品集であるが、いずれも「D機関」と呼ばれる、戦前の帝国陸軍内に設立されたスパイ養成学校がらみの出来事をとり扱っている、という意味ではひとつのつながりをもつ連作短編集でもある。そして、何よりこの「D機関」のもつ性質こそが、本書の大きな特長であり、また物語のなかでさまざまな意味合いを帯びてくることにもなる。

「諸君の未来に待ち受けている真っ暗な孤独。その中で諸君を支えてくれるのは、外から与えられた虚構などではありえない。諸君が任務を遂行するために唯一必要なものは、常に変化し続ける多様な状況の中でとっさに判断を下す能力――即ち、その場その場で自分の頭で考えることだけだ」

 題材が題材だけあって、それぞれの短編で取りあげられる事件は、いずれも国際諜報に関するものばかりである。あるときは、とある外国人にかけられたスパイ容疑についてその真偽を調査し、また某国のスパイとしてマークしていた人物の不可解な死の真相を探る。あるいは自身がスパイとして外国に送り込まれる、といったシチュエーションをつうじて物語が進行していく本書であるが、じつのところ国際諜報という要素そのものは、本書を評するさいにはさほど重要なものではない。少なくとも、高村薫の『リヴィエラを撃て』や手嶋龍一の『ウルトラ・ダラー』といった作品におけるその位置づけと比べて、本書の場合は多少異なる性質をもつものだと言える。本書の中心を成しているのは、あくまで「D機関」というきわめて特殊な組織であり、その時代背景や国際諜報といった要素は、むしろ「D機関」の特異性をよりいっそう際立たせるための装置にすぎない。

 その最たる例のひとつとして、戦前の日本の帝国陸軍の存在がある。スパイという行為を「卑怯卑劣」な手段と断じ、「D機関」の設立、それも、その候補生として陸軍学校からではなく、民間の大学から選抜するというそのやり方に少なからぬ反感を示している陸軍は、天皇を現人神とあおぐ徹底した軍人教育という「虚構」にどっぷりと漬かった組織という位置づけで書かれている。それは、現代に生きる私たち読者にしてみればおよそ旧弊で時代錯誤な考え方であり、自分の頭で考えられない人間の集団の類型としてとらえてしまうことを充分に承知したうえでのものだ。そうした帝国陸軍の、まさに対極に位置する組織として「D機関」は存在する。そして、だからこそ本書の短編において、陸軍が扱いかねるやっかいな案件を、いわば押しつけられる形で引き受けることになる「D機関」の特殊性が際立つことになる。

 ある謎があり、その真相を突き止める、あるいは表層的な出来事の裏に、思いもよらない策略や思惑が隠されている――これは、帝国陸軍を無能な警察に仕立て上げたうえで、「D機関」が探偵役となって展開していくミステリーの形式である。ただ本書の場合、極端な個性をもつ「探偵」というキャラクターは存在しないに等しい。何より目立たないこと、「見えない存在」となって敵国に何年も溶け込み、人知れず任務をはたすスパイ候補生たちにとって、いかにも探偵的な個性など邪魔以外のなにものでもない。探偵役となる人物は短編ごとに異なっており、けっしてその個性を固定しないようにしているうえに、その名前や経歴すら仮のものとして与えられたものにすぎない、という設定が、「D機関」という組織の特殊性にさらに拍車をかける。

 個人としてはけっして突出した性格をもっているわけではなく、その名前すら印象の薄いものであるにもかかわらず、「D機関の人間」という枠組みのなかにおいて、まるで闇のなかに蠢く幽霊のごとく、得体のしれない不気味さという強烈なインパクトを与える、という矛盾した要素を違和感なく成立させているところが見事な本書は、それゆえに5つの短編のうちの2作について、主体を「D機関」の外にいる人物に割り当てている。「D機関」があたえるどんな無茶な課題も、口笛混じりにこなしていくというスパイ候補生たち――そんな彼らの姿を見た登場人物たちは、一様に彼らのことを「人でなし」「怪物」と呼ぶ。そこにあるのは、自分以外のなにものをも信じず、またそれゆえに「自分ならこの程度のことはできて当然」という歪んだ自尊心のみで生きている、このうえなく孤独な人間の姿だ。そして、そんな「人でなし」どもを統括する人物として、「魔王」こと結城中佐の存在がある。

「何かにとらわれて生きることは容易だ。だが、それは自分の目で世界を見る責任を放棄することだ。自分自身であることを放棄することだ」

 かつて、自身がすぐれたスパイであり、さまざまな逸話や伝説とともに語られる結城中佐の存在自体、そうした逸話によってたくみに「虚構」であることを装っているところがある。そして、そんな彼が事あるごとに語る「とらわれない」という生き方――だが、それはこの世にあるありとあらゆるものを信じない、それこそ自身の感情や死そのものでさえとるに足らないものだと捨ててしまうことができる、ということを意味する。それが結城中佐と言うところのまぎれもない「自分自身」であるとするなら、自分が自分であるということは、なんと厳しく、また凄まじいものであるか、と戦慄せずにはいられない。

 どこまでも冷徹に現状を分析し、安易に死を選ぶことを周囲の関心を引き寄せる愚劣な行為とみなし、あくまでスパイとしての矜持をもって任務にあたる「D機関」のスパイたち――はたしてその生き様に、あなたは何を思うことになるのだろうか。(2009.02.23)

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