【東京創元社】
『殉教カテリナ車輪』

飛鳥部勝則著 
第九回鮎川哲也賞受賞作 

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 いくつかの小説の書評をつうじて、何度かくり返し主張してきたことをあらためて書くことになるが、人が何かの行動を起こすときに、かならずしもその言動のすべてにおいて論理的な説明がつけられるわけではない。人はしばしば、あまりにも容易にわけのわからない衝動に駆られて物事の選択をおこなってしまうものであるし、またそうした衝動は、およそ人を選ぶようなものでも、また時間を選ぶようなものでもない。誰もが理性を失くし、普段であれば信じられないような言動をとってしまう可能性を持ち合わせているものであるし、何かを選択しなければならないときに、当人がその結果について熟考できるほど時間は待ってくれない場合だってある。

 新聞やニュースなどで毎日のように報道されている殺人事件――人が他ならぬ自身と同じ人の命を殺めるという行為について、たとえどのような理由があったとしても許されるものでないことはたしかであるが、だからこそ人々は、その犯行の動機について注目せずにはいられない。なぜなら、殺人というのはそれだけでも重大な行為であり、その行為にいたるまでにはそれ相応の、重大な理由や経緯、秘められた過去があってしかるべきだという論理をはたらかせるからである。とくに、猟奇的殺人などの常軌を逸した犯罪行為について、世間が執拗にその動機を求めるのは、猟奇的殺人という名の「わけのわからないもの」について、何でもいいから論理的な説明をつけ、そのことで安心を得たいと願っているからに他ならない。だが殺人という、けっして軽くはない犯罪の動機が、たとえば「金銭目的」とか「怨み」、「痴情のもつれ」とかいった単純な言葉で片づけられるようなものだろうか。

 計画的なものであれ、あるいは衝動的なものであれ、人が人を殺すときの動機について、いい加減なところで手を打つようなことなく、しっかりとその奥底にまで目を向けていくためには、けっきょくのところその人物の生涯について足を踏み入れざるを得なくなる。本書『殉教カテリナ車輪』は、そういう意味では徹底してその「動機」の部分に目を向けたミステリーだと言うことができる。ただ、読者の前にまず提示されるのは、彼の描いた数枚の絵画である。そして、その絵画の作者の名は、東条寺桂という。

 その冒頭で、彼がじっさいに描いたとされる絵のカラーページが載せられている本書において、中心人物となるのは間違いなく東条寺桂である。だが、彼はすでにこの世の人ではない。自宅の蔵の中で首吊り自殺を遂げた故人である。そして、彼はもともと町の写真館の経営者であって、けっして専門の画家というわけでもない。いわば、地方のマイナー画家にすぎない東条寺桂に、しかし新潟県塩沢にある井摩井美術館の学芸員、矢部直樹はひとかたならぬ興味をもつ。三十代前半から独学で絵を描きはじめ、自殺するまでの五年間で五百点以上もの作品を手がけた東条寺桂――今ではそのほとんどが失われてしまった彼の作品を追い求めていくうちに、矢部は過去に起きたある奇妙な二重殺人に出くわすことになる。

 私は豪徳二を殺した。
 理由はない。
 私は佐野美香を殺してしまった。
 理由はない。

 同時に起こったふたつの密室殺人、犯人はひとり、そして、犯行に使われた凶器もひとつ――東条寺桂のことを調べていた矢部直樹が、その過程において発見した彼の手記の清書版を、同じ美術館の事務員である井村正吾に見せる、という形で展開する本書は、過去に起こった二重の密室殺人という点を中心とする本格ミステリーである。じっさい、矢部が東条寺桂の絵画に対して実施する図像解釈学(イコノロジー)は、なによりその作品が創られた理由や意味について深く読み解いていくことで、その芸術性を跡付けしていく学問であり、はからずも矢部が言うようにミステリーに近いものがある。

 ある絵画の図像をとらえ、その細部をひとつひとつ検証し、またその絵画の描かれた背景や時代を考慮しつつ、その背後に隠された真相を推理していく――この絵画における図像解釈学とミステリーとを結びつけた点もまた、本書の大きな特長のひとつであるが、ここでもっとも重要なのは、そこから導き出されるのが、東条寺桂の過去におこった二重密室殺人事件における「どのように」でも、「誰が」でもなく、「なぜ」という部分に集約している点である。じっさい、事件のトリックについては、種がわかってしまえばこのうえなく単純なものでしかないし、犯人については本書のなかにこのうえなく明らかな形で提示されている。そうである以上、残されているのは「なぜ」の部分になるわけだが、そのあたりの仕掛けが鮮明になってくるのは、じつに本書のラスト近くになってからである。そのあたりの構成におけるバランス感覚の絶妙さは、特記に値する。

 学者の解決も国や時代によって変わっていく。この学問では唯一絶対の結論は出しようがない。一つの絵に何通りもの解釈がつく。謎に最終的な解決などありえないのだ。

 ミステリーのトリックにおける「どのように(ハウダニット)」の解釈が、たんに論理的帰結によるものだけでは、けっしてただひとつのものとして決着することがない、という事実については、笠井潔の『バイバイ、エンジェル』をはじめとする現象学探偵シリーズにくわしいが、「なぜ(ホワイダニット)」については、ミステリーという読み物の立場からすれば、そこに論理的決着自体を必要とはしない。必要としているのは、常に人間である。そして、本書に提示された二重密室殺人事件の全容があきらかになったとき、読者ははじめて、東条寺桂が描いた「殉教」や「車輪」といった絵画の意味について、これまでとはまったく異なるものが迫ってくることに気づくことになる。

 人はなぜ殺人を犯すのか――まぎれもない現実を生きる私たちは、常にそこにしかるべき論理的理由を求めてしまうが、あるいはその理由をもっとも求めてやまないのは、他ならぬ犯人自身なのかもしれない。二重密室殺人という本格ミステリー向きのトリックを用意していながら、そこに殺人へと到る人間の心の揺らぎ、そしてそこから始まるはてしのない苦悩を、文字どおり描くことに成功した本書を、ぜひとも読み解いてもらいたい。(2007.04.09)

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