【岩波書店】
『自由と国家』

樋口陽一著 



 そのサブタイトルに「いま「憲法」のもつ意味」とあるように、本書『自由と国家』は憲法論を展開した本である。もともと私が本書を読もうと思ったきっかけは、『困ってるひと』の著者である大野更紗が、この著者のファンだと公言していたからにすぎず、とくに憲法に興味があったというわけでもなかったのだが、本書を読み終えて思いがけず、そのテーマが文学を語るうえでも重要なものであると認識できたのは、私にとって大きな収穫となった。なぜなら憲法の成り立ちを知ることは、とりもなおさず近代国家の成り立ちを知ることであり、そこから今にいたる日本という国の問題点を知ることへとつながるからである。そしてそうした問題点を意識するかしないかによって、その国の「今」を映す鏡である文学者の書く小説の意味合いも、大きく変わっていくことになる。

 国家を作り出すことによって、それまでの身分的拘束から個人を解放し、そのうえで、その個人を国家の圧力から擁護しようという構図のかなめに位置するものとして、憲法というものがある。

 さて、大変恥ずかしい話であるが、私は今まで憲法というものが、国民ひとりひとりが守るべきものという漠然とした認識しか持ちあわせていなかったのだが、上述の引用を解釈するかぎり、この「法」を守るべきなのは国民ではなく、むしろ国家であり、その権力を有する公務員たち、ということになる。

 言うまでもないことであるが、国家は権力を集中させているからこそ成り立つ枠組みである。ひとつの国がもつ力は膨大だ。そしてその枠組みを、王様や君主といったごく一部の者たちによって維持していたのが近代以前の世界である。これまでの歴史が物語っているように――そして今もなお相変わらず語られるように、権力を手にした人間は少なからずその力を濫用するようになり、そのことによって多くの人間の人権が踏みにじられてきた。ここでいう「国家」とは、国王などの支配者の下に法があるのではなく、支配者の上に法を置くことを前提とした国、ということになる。国王や君主であっても法に逆らうことはできない。特定の人ではなく、法によって治められる国家、すなわち「法治国家」の誕生が近代のはじまりとなる。

 本書ではおもにフランスの人権宣言から端を発し、イギリスの立憲君主制やアメリカの独立宣言を経て、戦前のドイツや日本、さらに第三国へと広がっていく法治国家のたどった歴史と現在をふまえたうえで、その核をなす「憲法」とは何なのかをあらためて問いなおす、というスタンスで書かれたものである。憲法についてある程度の知識があることを前提としている部分もあり、多少の専門用語が出てきたりしてけっして平易に読めるわけではないのだが、法治国家における「個人」の考え方の基礎や、法治国家のかかえる諸問題、さらにはそこから派生することになるマルクス主義の起源など、日本をふくむ世界の近現代を理解するための根本が、そこにはたしかに存在する。逆に言えば、憲法の概念を理解することが、現代の抱える諸問題を理解することへの第一歩となる、と言ってもけっして過言ではない。

 たとえば「個人」の概念について言うなら、それは権力を集中した国家と直接向き合う対象としての存在、ということになる。つまり国家と諸個人との間には、どのような中間団体も介在すべきではないし、またしてはならないのだが、それゆえに、法治国家の原点とも言えるフランスで発された人権宣言には、中世的身分制度という、個人がまぎれもない個人であることを妨げる仕組みからの解放――市民革命が不可欠のものとして定義されている。それは、個人が個人であることを自らの手で回復する、という積極的行為であり、だからこそ人々はその勝ち取った「人権」を維持するものとして憲法を制定し、法治国家を生み出した。

 そんなふうに考えたとき、同じ「個人」という言葉を用いるにしても、フランスにおける個人と日本におけるそれとは、文字どおり血を流して獲得したものであるか、あるいは上から与えられたものであるか――悪い言い方をすれば「押しつけられた」ものであるか、という認識の違いが存在することになる。この「個人」の権利であるところの「人権」という考え方は、それを「搾取構造を隠すためのイデオロギー」と解釈することでマルクス主義が発生したように、近代思想の根源となっているところがあって面白い。そしてそれぞれの国家の違いは、もとを正せばそれぞれの国家が向き合うべき「個人」の解釈の違いと同義でもあるのだ。

 私自身もそのひとりであるが、こうした「個人」の認識は、けっして強いものではない。むしろ家族とか会社とかいった、本書で言うところの中間団体への帰属意思が強かったりする。むろん、個人が社会に参加するための中間団体は必要不可欠なものであるのだが、この中間団体が、いったんは個人が個人であることの妨げとなるとして解体させられた後に、あらためてその権利を認めていくという紆余曲折がフランスではあった。そうした過程を経ないまま法治国家への道を歩むことになった日本の近現代において、たとえば個人と家族の関係から生じる摩擦や矛盾は、文学的に大きなテーマのひとつとなっている。

 繰り返しになるが、今の日本がかかえる問題を理解するためには、そのもととなる近代国家の成り立ちを知る必要があり、そのかなめとなっているのが「憲法」だ。そして、こうした知識があれば、今でもたびたびとり立たされる改憲問題、とくに第九条の改定がどのような結果をもたらすことになるかも、より具体的に意識できるようになる。国の強大な権力が個人の人権を侵害しないために制定されたのが憲法であるなら、それを変えることに対してどれだけ慎重になっても足りないくらいであるし、言うまでもなく戦争とは、最大の人権侵害である。だからこそ、戦争行為とその手段の放棄をうたった日本国憲法の理念は素晴らしいし、容易に改定すべき項目ではないはずなのだ。そのあたりの事情を理解したうえで改憲を語るとの、知らないまま語るのとでは、それこそ雲泥の差があると言わなければならない。

 まぎれもない自分自身、という言葉は、私が書評でしばしば用いる表現ではあるが、その自分自身がどれだけ憲法上の「個人」と結びついていたのかについて、あらためて問いなおすきっかけとなったのが本書である。そしてその問題は、法治国家を生きるすべての人達が意識すべき問題でもある。ぜひ一度読みとおしてもらいたい。(2012.04.08)

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