【大谷喜作商店】
『自堕落回避システム』

N沢M彦/プロデュース 



 ごく基本的な話として、小説を書くという作業はひとりの書き手によって成される創造活動である。むろん、なかにはエラリー・クィーンや岡島二人などのように、ふたり以上の集団が共通のペンネームをもちいることによって、ひとつの作品が書かれるという場合もあるし、小説のまえがきやあとがきにもあるように、編集者やその他大勢の協力があって、はじめてひとつの作品として結実することもたしかだが、少なくとも「小説」という形あるものとして文章をおこす作業をおこなうのは、書き手ひとりだけのものであり、だからこそ小説を書くことは、自分と向き合う孤独な作業だと言われるのである。

 たとえば、同じ物語を創造する作業でも、映画の場合、映画監督がひとりいたとしても、けっして映画は撮れない。シナリオライターによる脚本、役を演じる俳優たち、機材を揃えたりするスタッフといった、大勢の人たちが協力しあうことによって、はじめて映画は完成する。それは演劇やアニメでも同じことである。漫画にしても、たしかに作者はひとりかもしれないが、それでもなお何人かのアシスタントが創作に手を貸しているのが大半である。そういう意味では、小説という表現形式は、映画や演劇よりは、むしろ絵画や彫刻の世界に近いものがあると言えるかもしれない。

 これから紹介する『自堕落回避システム』という本は、これまであたり前だと思われていた小説の形式とは、まったく異なるやり方を経て完成された、言ってみれば進化の別の道筋を、あえて模索しはじめた革新的な作品である。

 まず、本書には一般的な意味での「著者」がいない。代わりにN沢M彦という名前が、あくまで「プロデュース」という形で出てくる。もくじを見てみると、大谷善郎、須藤洋一、倉丘怜一の三人の書き手による、いくつかの短編が収められた作品集であるかのような体裁になっているが、それぞれの短編は、大きく3つの部分に分類することができる。最初の10編は、たとえばかつてアルバイトしていた地方の温泉に旅行をしただとか、競輪で多少もうけることができたとか、音楽に関する薀蓄だとか、とくに誰とも会わずに自堕落な日々を過ごしたとかいった、いっけんするとただの身辺雑記の寄せ集めのようでありながら、じつは短編の書き手と本書のプロデューサーであるN沢M彦をふくめた四人が、かつて劇団を立ち上げようとしてけっきょくは失敗に終わった、という共通の過去によってつながりを持っている者たちであることが見えてくる仕掛けになっている。

 次の3編のうち、2編までが大谷善郎の作品であるが、これは前の10編と比べると、だいぶ創作と呼べるようなものとなっている。そして、これらの3作品は、たとえば「2号・梨絵のために」に登場する梨絵の回想シーンで出てきたした慎一と、妙にフットワークの軽いふく子ばぁちゃんが、同著者の「あいまい思い出のかわりに」のなかでも、微妙に性格の異なる登場人物として出演していたり、「N沢M彦のこと」で紹介されているN沢M彦が、「あいまいな思い出のかわりに」のなかでマサヒコという名前で再登場したりといった感じで、どこかでつながりをもった構成となっている。

 そして、最後の1編である、大谷善郎の「ノンセクトリリカル」――本書に載せられた短編のなかではもっとも長い作品は、小説ではなくシナリオという形をとっているが、この作品を読むことによって、はじめてこれ以前の短編集が、「ノンセクトリリカル」を完成させるための、言わば「材料」として機能していたことに気づくことになる。

 以下に、本書に掲載されている短編のタイトルと著者を、掲載順に挙げておく。

(第一部)
1.『明日、M温泉卿へ行く』(大谷善郎)
2.『立川まで行けば』(須藤洋一)
3.『川崎ビジネスホテルでのしあわせな時間』(倉丘怜一)
4.『ピーナッツ男と夜の散歩』(須藤洋一)
5.『京急平和島駅発JR大森駅行き定跡』(倉丘怜一)
6.『出来ればそうしたい――』(須藤洋一)
7.『迷ったあげくに「動き回る」』(倉丘怜一)
8.『誰にも会いたくなかった十日間』(須藤洋一)
9.『モンブランからの招待状』(倉丘怜一)
10.『R子からの手紙』(須藤洋一)

(第二部)
11.『二号・梨絵のために』(大谷善郎)
12.『N沢M彦のこと』(須藤洋一)
13.『あいまいな思い出のかわりに』(大谷善郎)

(第三部)
14.『ノンセクトリリカル』(大谷善郎)

 こうして見たときに、身辺雑記的な第一部は須藤洋一と倉丘怜一が、創作が主となる第二部と、メインとも言うべき第三部は大谷がほとんどを占めているのがよくわかると思う。じつは、第一部と第二部、第二部と第三部のあいだには、「三枝惣太郎の作品」と銘打った、彫刻の写真が数点載せられているのだが、これはおそらく、本書の短編集が、徐々にただの文章から「物語」へとシフトしていくという布石だと思わせる。そして、そのように考えたとき、本書に短編を載せている三人の著者が、それぞれある物語を創作するための役割分担をおこなっていることが見えてくる。すなわち、大谷善郎が実質的な文章の書き手であり、須藤洋一と倉丘怜一が印象的なシーンを収集し、N沢M彦がそれらの作品集をすべて管理し、本書『自堕落回避システム』という作品としてまとめあげた、ということなのだ。

 本来であれば、作品として載せるべきなのは、最後の『ノンセクトリリカル』だけだということになるのだろう。だが、それだと著者はあくまで大谷善郎だけであり、それ以外の、実質的な書き手ではないが作品完成のために尽力した者たちの名前は出てこない、ということになる。本書の大きな特長であり、また重要なテーマとしてあるのは、そうした小説のそれまでの姿勢、つまり、小説がひとりの書き手によって創作される、という姿勢に対するアンチテーゼなのだ。彫刻や絵画のように小説を創造するのではなく、あたかも映画や演劇のように、多くの人たちの手によって生み出されるものとして小説を創造するとき、そこにはひとりの人間による孤独な作業よりも、より良いものが生み出されるのではないか、というひとつの信念が見えてくる。だからこそ、本書のあり方は「革新的」だと述べたのである。

 とにかく、実験的であり、なんとも不思議な体裁の作品である。そして本書には、まだまだ私には及びもつかない何かが隠されている。たとえば、『ノンセクトリリカル』では相沢慎二というバツ一の男性が、デパートの屋上にある遊園地で働いているのだが、その遊園地の風景は、『明日、M温泉卿へ行く』で大谷善郎が行った温泉郷の観覧車を思い出させるし、となると、大谷善郎が電話で話したというA氏とは、じつは相沢慎二であり、相沢慎二はあくまで実在の人物ということになってしまう。はたしてどこまでが虚構で、どこまでが現実なのか――あるいは、名を連ねている著者たちでさえ、その実存があいまいになってくる、という奇妙な状況こそが、本書の真骨頂なのかもしれない(2003.12.04)。
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