【さ・え・ら書房】
『さよならわたしの本屋さん』

ペーター・ヘルトリング著/田尻三千夫訳 



 子どもにとって、世界は自分を中心に回っているものである。それは、ともするときわめて自己中心的な考えであるし、じっさいに子どもというのは自分勝手なものでもあるのだが、そうした過程を経ることで、まぎれもない自分自身というものが形成されていくと考えれば、人が人として成長していくために踏むべき段階のひとつであると言うこともできる。自分にとってどんなことが好きで、どんなことが嫌いなのか――そうした自己の感情世界があるからこそ、人と人とのかかわりのなかで、お互いの世界が対立し、そのことで、子どもたちはこの世界に自分以外の多くの人たちが、自分と同じように生きているということを自覚していく。
 大人になってしまえば、常に自己中心的な振るまいをしているわけにはいかなくなる。それは、子どもであるからこそ与えられた特権なのだ。

 確固とした自己が形成され、世界の王様だった子どもたちが、やがて自分の思いどおりになるとはかぎらない世界と向き合うとき、そこには人間としての成長と同時に、自分がもはや以前のような子どもではいられなくなる、というちょっとした寂しさ、変わらずにいつづけることのできない哀しさがともなうものでもある。今回紹介する本書『さよならわたしの本屋さん』は、現代のベルリンを舞台とした児童書で、主人公のイェッテは十二歳の女の子。物語は、そんなちょっと空想癖の強いところのある彼女と、とあるきっかけで知り合うことになった本屋の主人であるトプフとプレシュケのおじさん二人組との交流を中心に描かれていくことになる。

 性別も年齢も、そして社会的立場も大きく異なる彼らを結びつけるきっかけとなったのは、本だ。トプフもプレシュケもちょっとした変わり者として周囲から見られているところがあるが、ふたりとも多くの本を読んでおり、それゆえに物知りで、それらの物語を面白おかしく、ときには寸劇仕立てで語って聞かせるだけのユーモアの持ち主でもある。いっぽうのイェッテは、それまであまり本とかかわることなく生きてきたが、ちょっとしたきっかけからすぐ独自の空想の世界にひたりこんでしまうところがあり、トプフたちの語る豊富な知識と本がもたらす物語は、彼女の想像力を大きく刺激するに充分なものがあった。そういう意味で、イェッテと彼らが友人としての親交を深めていくのは必然でもあった。彼らはお互いに似かよったものをもっているのだ。

「わしは本屋だ――(中略)――これは一つの事実だ。わしは、物心ついて以来というもの本が好きだった。これはまたべつの事実だ。本を読んでいるとき、わしはわしらをとりまくこの世界を離れて、べつの世界へと旅をするんだよ。わしは、ここにいて、同時にあちらにもいるんだ。」

 あくまでイェッテの視点で語られる本書において、彼女をとりまく環境は、それなりに複雑なものを内包している。その最たるものが、両親が離婚したばかりだという事実だ。彼女は現在、母親のカローラとふたり暮らしだが、カローラはイェッテに自分のことをママと呼ばないように語り、また自分の衣装やアクセサリーを遊び道具にして、娘と一緒にファッションショーごっこをしたりといった、素敵ではあるけどあまり母親らしくない一面をもっている。そしてイェッテは、父親のいない今の状況――まるでカローラが母親ではなく姉のように見える今がいいのかどうか、うまく判断できずにいる。同じように彼女の友人関係においても、とくに男の子との関係において、ちょっとした変化が生じている。幼なじみ同然のマックスは男の子の友人筆頭だが、最近はミランのことが気になってしょうがない。そして、彼女はそれが恋愛と呼べるようなものなのかどうか、判断できずにいる。

 十二歳の女の子といえば、少女が女性へと変化していく、その最初の兆しが見えてくる年頃でもある。そして、そんな微妙な変化のなかで、何が良くて何が良くないのか、その区切りもまたはっきりさせることなく物語は進んでいく。だが、それは何もかもを曖昧なままにしておくというよりは、判断保留という言葉がふさわしい。口で言うことと行動とがしばしば矛盾し、ときに約束していたことを破ることもある大人たちの態度に不信感をもちながらも、同時にそうした大人の事情がまかりとおる大人の世界を垣間見ることになるイェッテの、それこそが彼女の見ている世界である。何かひとつの答えに凝り固まることのない、柔軟でまだまだ多くの余地を残したままでいられる子ども特有の視線が、本書のなかにはたしかにある。それは本書の大きな特長のひとつとして、評価されるべき点であるが、それ以上に重要なのは、そうした判断保留の余地が、外からの要因によってなかば強引に奪われ、物事の境界を否応なく突きつけられてしまうという、当人にとってはショッキングな感情を描こうとしている点である。

「あなたみたいに空想力がゆたかなのは、すてきなことよ。生きていくうえで助けになるわ。でも、あなたの空想と、身のまわりの現実とのあいだの境目に気をつけなきゃならないときもあるのよ、イェッテ」

 はたしてそのショッキングな外部からの枠付けが、当人の成長ととらえられるのか、あるいは子ども時代の終焉ととらえられるのか、本書のなかではっきりとした結論は出してはいない。だが、ひとつだけたしかに言えるのは、イェッテとトプフ、プレシュケとのあいだに育ったつながりは、本という媒体をとおして、上述した「生きていくうえで助けになる」想像力によるものであった、ということである。だからこそ、トプフの過去を語るシーンにおいて、本書は「トム・ソーヤーになれなかったトプフ」という位置づけを用意した。ユダヤ人だった友人をナチスの手から守れなかったトプフの少年時代は、その外部からの圧倒的な力によって否応なく終わってしまった。だが、そんなつらい出来事があったにもかかわらず、なおトプフのなかでトム・ソーヤーは大切な人物のひとつとして、その地位を保ちつづけている。

 そういう意味で、本書は外部から突きつけられる境界線の存在、いつまでも子どものままではいられない、という状況を、たんに悪いものとしているわけではない。そして、本書の最後にイェッテを襲う、周囲の大人たちの誤解による彼らとの関係の終焉という結果を考えたとき、それはたしかにひどいことでもあるのだが、いずれ何らかの形で彼女にも訪れる子ども時代の終わりに対して、あらかじめ心の準備をさせるためのものであった、ともとれるのだ。空想は空想でしかないが、それが相手のことを自分のことのように思いやることにつながれば、想像力となる。トプフの少年時代の出来事が、自分の身に起こったとしたら、はたしてどうすればいいのか――彼らの関係は、まさにそうした想像力によって結びついたものであり、だからこそ、当人たちの意思とは関係なくそれを終わらせなければならないことが切なく、哀しい。

 トプフとプレシュケが営んでいるのは個人経営の本屋さんであり、ふたりとも本に対して並々ならぬ知識と情熱をもっている。それゆえに、彼らの本屋はとても魅力的であり、イェッテを惹きつけてやまないものがあった。空想と現実、子どもと大人、その境目を行き来しながら成長するイェッテにとって、彼らの本屋はどのようなものであったのか、ぜひとも一度考えてみてほしい。(2008.10.25)

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