【講談社】
『殺戮にいたる病』

我孫子武丸著 

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 自分のことを「僕」と呼ぶ男性が実在することを知ったのは、私が上京して某私立大学に通いはじめたときのことだった。私が生まれ育った地方の北国は、関西系の荒っぽい方言がよく使われていて、自分のことを「僕」と呼ぶ男性など周囲には皆無だった。そのときの私にとって、それはせいぜいテレビのなかの出来事のように遠い存在でしかなかったのだ。だからこそ東京の大学で、けっこう年配と言っていい教授なり講師なりが、自分のことをごく普通に「僕」と呼んでいるのを耳にしたときは、けっこう大きな違和感を覚えたものである。

 たとえば小説や漫画などで、女の子が「〜だわ」や「〜よ」と末尾につけるしゃべり方をするのはよく見かけるが、では現実の女の子がみんながみんな、そんな女言葉を使っているのかといえばけっしてそうではない。では、なぜ小説や漫画といった虚構の世界で、女の子たちが現実にはかならずしも浸透していないはずの女言葉を使うのかと言えば、女言葉が「女性」という属性を伴っているからに他ならない。とくに小説などの場合、会話の連続であっても、女言葉が混じっていれば、少なくともどの言葉が女性の発したものであるのかが理解できるという利点があるのだ。

 私たちは、ともすると自身の主観に引きずられて物事の本質を見逃してしまうことが多々あるものだが、同じように言葉がもつイメージにも先入観をいだきがちであり、だからこそそこに、ミステリー小説におけるトリックの仕掛けられる余地が生まれてくることになる。今回紹介する本書『殺戮にいたる病』について、未読の方がいらっしゃるのであれば、できるだけこうした書評や感想などの先入観にとらわれる前に、ともあれ読んでみることをお勧めしたい。ようするに、本書はそうした作品であるのだ。

「オジンってのを訂正したら、考えてやってもいい」
「分かったわ――お・じ・さ・ま」
 彼は思わず吹き出した。面白い娘だ。

 本書は冒頭にいきなり「エピローグ」が来る。ようするに物語の結末だ。そしてそこには、蒲生稔という男が猟奇的連続殺人事件の犯人として逮捕される場面が書かれている。六件の殺人と一件の殺人未遂を犯し、刑事責任の有無を求めて精神鑑定さえ必要とされ、最終的には死刑の判決が下されたというそのエピローグは、たしかに本書のタイトルにふさわしい犯人像の、その異常性のほんの一部を垣間見せるものであるが、こうした構成が意図しているのは、読者にあらかじめ事件の犯人を特定する、というものである。つまり、私たち読者は必然的に、本書における一連の事件の犯人が「蒲生稔」という人物であることを念頭において物語を読み進めていくことになる。

 あらかじめ犯人がわかっているミステリーを読むことの面白さとして、犯人とそれを追う探偵役の登場人物との攻防――犯人はいかにして探偵を欺き、探偵はいかにして犯人を追い詰めるか、という点が挙げられる。じっさい、本書では犯人である蒲生稔が主体となるパートのほかに、刑事を定年退職した樋口武雄の視点で語られるパート、そして蒲生稔の身内である蒲生雅子の主観で進んでいくパートがあり、それぞれの視点が頻繁に入れ替わることで物語が進んでいくのだが、本書の中心となっているのはそうしたものではない。むしろ注目すべきなのは、犯人と探偵の視点のほかに、蒲生雅子という人物の視点が加わっているという点である。

 犯人である蒲生稔の視点において中心となっているのは、おもに彼がとりつかれているある種の妄想、自分が真実の愛に目覚めたという異常心理であり、結論から言ってしまえば、彼は自身の犯罪について、それが犯罪であるという意識がかなり希薄である。しかしながら、生きている女との関係に何ら価値を見出すことができず、死んだ女と愛し合うことが真の人間としての愛だという妄想に従って、次々と女を誘惑しては絞殺し、死体と性交したあげく、乳房や生殖器を切り取って持ち帰るという彼の犯罪行為は、その異常性からすれば充分なインパクトを与えるものであると言える。

 いっぽうの探偵役である樋口武雄の場合、犯人を特定し、できることなら自分の手で捕まえたいというある種の情熱がその原動力なっている。刑事を引退後、最愛の妻を亡くして無気力状態にあった彼を、看護士であり、亡き妻の担当だった島木敏子が何かと気にかけてくれていたのだが、その彼女が連続殺人事件の犠牲者となってしまった、というのがその動機にあるのだが、彼女の妹である島木かおるの内面の葛藤と、その意を汲んだうえでの協力という形をとっているとはいえ、それだけでは犯人の強烈な妄想との釣りあいは取れない。そこで著者は、島木敏子が樋口武雄に対してひそかな恋愛感情を抱いていた、という設定を用意する。

 ここまで述べた時点で見えてくるのは、蒲生稔と樋口武雄、この両者が抱いている恋愛感情が、いろいろな意味でひとつの相似を成しているということだ。とくに樋口武雄の場合、島木敏子の恋愛感情になかば気づいていながら、それには答えられないという気持ちがあるのだが、それは彼が六十代の老人であり、島木敏子が離婚歴はあるものの、まだ若いといっていい年齢であったことを考えれば、ごく自然なことと言える。だが、ここで問題となってくるのは、蒲生雅子のパートがどのように絡んでくるか、ということである。なぜなら、蒲生雅子のパートが象徴しているのは「息子」への愛情、つまり親子愛と呼ぶべきものであって、他のふたつが扱っている愛とは性質の異なるものであるからだ。

 本書における三つのパートがそのバランスをたもつためには、蒲生雅子もまた何らかの形で恋愛感情に絡んでこなければならない。だが親子愛では、他のふたつのパートにおけるそれとは比較対象とはならない。では、彼女は「息子」に対して恋愛感情をもっていたのだろうか? むろん、そうしたことが皆無とは言わないが、少なくとも本書において、異常性愛を象徴するのは蒲生稔の役割である。はたして、蒲生雅子の恋愛感情はどのようなものであるのか――その答えこそが、じつは本書に仕掛けられた最大のミステリーを推理するための、重要なヒントとなると言っていい。

 繰り返しになるが、私たちは言葉がもつイメージに引きずられずにはいられない。はたして本書をつうじて私たちが見ている「蒲生稔」とはどのような人物であるのか、そしてそれぞれがいだく愛情にどのような結末が用意されているのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2009.10.16)

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