【朝日新聞社】
『邪宗門』

高橋和巳著 



 私がまだ学生だった頃、大学で知りあった尊敬すべき先輩が、とある新興宗教の信者だったことがあった。
 その頃はメディアでも、心霊現象やミステリーサークルといった超常現象企画がさかんに取り上げられていて、いわゆる「オカルトブーム」だった時代であるが、それと関連してか、たしかに大学の構内や駅の近くに、ごく普通に「人の幸せを祈る人々」の姿があったりしたものだった。だが、知らず知らずのうちにその先輩とともに、とある新興宗教の集会に参加させられたこと、そして何より、尊敬すべき先輩が他ならぬ新興宗教に傾倒していたことに気づいたときは、相当にショックだったのをよく覚えている。

 新興宗教の信者は、たいてい非常に穏やかな表情をしている。まるで、この世に悩むべきことなど何ひとつない、と信じて疑っていないかのような穏やかな微笑は、しかしそれゆえにこそどこか人間離れしていて、そのときの私にとってはただただ不気味に映っただけだった。だが、あれから多少なりとも人生の酸いも甘いも知り、世の中の不条理の前に、成すすべもなく立ちすくんだことのある今なら、その先輩にかぎらず、新興宗教に走っていった人たちの気持ちが、何となく理解できるように思う。人間は、誰しもが弱い生き物なのだ。そして誰もが、自分がこの世に生きていることに対して、それを無条件に肯定できるような心のよりどころを――けっして揺らぐことのない強い心のよりどころを求めている。

 本書『邪宗門』では、「ひのもと救霊会」と呼ばれる架空の新興宗教が登場する。新興宗教というと、今ではオウム真理教が引き起こした一連の事件のおかげですっかり悪い印象をともなう言葉となってしまったが、ひのもと救霊会の場合、明治の中頃にごく平凡な女性だった行徳まさを開祖に、その後を継いで行徳姓となった仁二郎を教主として、わずか30年程度の活動実績しかない宗教団体でありながら、小作農や女工といった、文明開化の恩恵を受けられない底辺層の人々の圧倒的な支持を得て、昭和初期の時点で全国に百万人の信者を持つまでの勢力に成長している、という設定となっている。だが、物語全体に漂う雰囲気は非常に沈痛で暗く、救いのないものであり、その前兆は、教主をはじめとする教団幹部の不当な逮捕という形で、すでに物語の冒頭から現われている。

 そもそも強烈な終生観、宿命論をもち、現世の世なおしを標榜するひのもと救霊会は、二代目教主の時代には独自の自給自足の共同体――労働と信仰を結びつける原始共産的な運動へとシフトしていったものの、労働者こそが革命の担い手であるとする共産主義同様、国家にとって思想的統一をさまたげる団体のひとつとして、けっして無視できない存在となっていた。本書は大きく昭和初期、戦前、終戦直後の三部構成となっているが、そこに描かれているのは、国家権力や他の宗教団体による弾圧や誹謗との戦いの歴史であり、組織が大きくなるにつれて政治的色彩の濃くなった教団内部の対立、分裂の歴史であり、また不当に搾取される側に、人間としてあたりまえの幸せをもたらすために、最終的には極端な方法をとらざるを得なかったひとつの理想の、挫折と破滅の歴史でもある。

 何が必要か? 結論は簡単だった。無理な工業化政策をとる必要のない<平和>。そして農村の、他の何ものにも指導されない自治。そして労働者や中産層組織との、互いに犯しあうことなき自由連合。

 ひとりひとりでは弱き人間たちが集団を組むことで形成されていった「社会」は、その集団性という特性ゆえに、どうしても支配・被支配の構造、つまり人間が人間を支配し、その行く手を導いていくという階級構造から脱却できずにいる。それはカリスマ的な王族や支配者による封建統治から、議会制民主主義による行政統治へと移行してもけっして消え去ることのないものであり、この日本においても、近世における江戸幕府の支配体制が明治維新、大正デモクラシーによって変革されてはいったが、けっきょくのところその支配者層が領主から資本家、そして国家そのものへと代わっていっただけのことでしかなかった。そうした昭和初期から終戦直後における政治の移り変わりをリアルに描いた、という意味で日本近代史的な価値をもつ本書であるが、より重要なのは、本書の視点が徹底して被支配者層の側に置かれている、という点であろう。時代が変わり、体制が入れ替わっても、農民や労働者たちが常に搾取され、虐げられる立場であることは変わらない――農民や女工たちを取り込んで成長していった「ひのもと救霊会」は、まさに被支配者側の代表なのだ。

 誰かが誰かを一方的に支配するようなことのない、そんな理想的な社会を実現させるためには、どのような方法をとるべきなのか――著者である高橋和巳は、よく左翼知識人の代表として、かつて全共闘時代を戦ってきた活動家のあいだで熱烈な支持を得ていた、というきわめて政治的な部分がクローズアップされがちな作家であるが、私が本書を読んで感じたのは、マルクス主義とか現行の社会構造の解体、あるいは自己変革とかいったこととは無関係に、ひたすらよりよい社会の実現を願ったひとりの人間だったのではないか、ということだった。著者があえて宗教団体を物語の主体においたのも、理想社会のひとつの形として、人間の理性や思考によって生み出された体制には限界がある、と悟っていたからだと考えると、本書が書かれた理由としても納得がいくし、また本書で「ひのもと救霊会」がたどることになる悲劇についても説明がつく。

 はたして「神」は実在するのか――私は宗教についてはけっして明るいほうではないのだが、ひとつの考え方としてあるのは、たとえば人間が世の中のあらゆるものに対して名前をつけ、そのことによって世の中を自分たちの認識の内にとりこんでいったように、「神」という概念もまた、「人はなぜ生きるのか」という究極の問いに対する、ひとつの名づけの行為なのではないか、ということである。未知である、というのは、人間にとっては恐怖の対象だ。であれば、自分という存在がたしかにここにあるにもかかわらず、その理由がわからない、という状態もまた、一種の恐怖である。その恐怖を克服するために、ほかならぬ人間が生み出した概念こそが宗教であるとすれば、かつてのオウム事件をふりかえるまでもなく、究極的には宗教もまた「人間が人間を支配する」という構造に陥らざるを得ない。

 そういう意味では、本書の壮絶な悲劇は、すでにその最初から運命づけられたものであったと言えるが、本書ではさらに、千葉潔という少年を物語の主要人物とすることで、その悲劇性をさらにはっきりとしたものに仕上げた。彼は母親の死後、その遺言にしたがって「ひのもと救霊会」の本山である神部を訪れ、そこではからずも教主の娘たちをはじめとするさまざまな信者や幹部たちと知り合うことになるのだが、彼はけっきょくのところ最後まで「ひのもと救霊会」の信仰を心から信じることはなかった。父の失踪、母の餓死――人が幸せに暮らしていくにはあまりに貧しい環境のなかで、人として許されない禁忌を犯してまで無様に生きつづけている自分は、ほんとうに生きていていい存在なのか? 本書がただよわせている沈痛さは、教団の運命というよりも、むしろ千葉潔個人がいだいていた、あまりに潔癖な自己への問いかけによるところも大きい。

 人間は想像力をあたえられた唯一の生物であるが、何かを想像すること、考えをめぐらせることは、同時に悩み、苦しむことでもある。おそらく、千葉潔は物質的な飢餓もさることながら、自分の生を肯定したいという精神的飢餓にさいなまれつづけていたのだろう。そういう意味では、本書は「人はなぜ生きるのか」という究極の問いかけを真っ向から受け止め、その答えを導こうとした作品であり、またそのことによって生じる、他の人間との関係について問いただす作品でもあるだろう。結果的に、千葉潔の行動は宗教によって結ばれていた連携を破壊し、宗教そのものをも否定することになったが、それが「想像」することを運命づけられた人間の本質であるとするなら、それはなんという悲劇であろうか。

 本当は誰も信じていなかった。それは千葉潔自身が一番よく知っている。ただ彼の孤独は無為と寂寞のうちに解消させるには、あまりにも深すぎた。――(中略)――むろん彼の記憶の灰色の幕にも、人の慈悲に胸つかれ、なにかの喜びに胸ふくらんだ一齣一齣も映らぬわけではなかった。――(中略)――だが彼に報恩すべき地盤がなかった以上、それは常に負債にしかなりようはなく、結局は苛立たしい心のしこりとなった。

 現在、全共闘による社会革命は水泡に帰し、宗教による救いの道も絶たれた。そして世の中は確固とした価値観を見出すことができないままに、今もなお迷走をつづけ、その歪みがさまざまなところで噴出しはじめている。かつて、新興宗教の信者だった尊敬すべき先輩が今、どこで何をしているのか、また彼女がその過去において何を抱えていたのかも、今ではもう知りようもないことだが、自身の生に対してゆるぎない心のよりどころを求めざるをえない何かがあった、という意味において、おそらく著者も同じであったのだろうと思う。もし、今という時代において、本書を読むという行為に価値観を求めるなら、それは真に理想的な社会のあり方を模索しつづけ、そして挫折していった人々の真摯な思いを受けとる、ということにこそあるのではないだろうか。(2004.09.25)

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