【文藝春秋】
『私の中の日本軍』

山本七平著 



 以前紹介した古処誠二の『ルール』は、第二次世界大戦時にフィリピンのルソン島で絶望的な戦いを強いられた日本兵たちの姿を描いた戦争小説であるが、この作品のなかでもっとも印象深かったのは、私たちが用いる言葉の裏に秘められた、残酷で救いようのない事実である。「死人を食うべからず」――そのような命令が、現実の第二次大戦時に軍の上層部からもたらされたのかどうかは知らないが、この命令が意味するのは、わざわざルールとして明文化しなければならないほど、死人の肉を食べるという行為が日本軍のなかで横行していたということを意味する。そしてそういう意味では、この命令はルソン島における日本軍の想像を絶する状況を、そして戦争というものがひとりの人間にもたらす悲惨極まりない状況を、このうえなく的確に物語っていると言うことができる。

 今回紹介する本書『私の中の日本軍』の著者山本七平は、奇しくも前述の作品の舞台となるルソン島に砲兵として派遣された経験をもつ。本書に書かれていることの半分は、そんな著者の体験した戦争の記録であり、じっさいに戦場に赴き、自分が殺されるかもしれないという状況に置かれた者のひとりとして、そのときの日本兵がどのような心理状態に陥ってしまうのか、その実体験もふくめて非常に貴重な資料であることは間違いないところであるが、本書において重要なのは、むしろ残り半分に集約されている。それは、いわゆる「百人斬り競争」の真相究明にかんする言及である。

 私自身、「百人斬り競争」の件については本書を読んではじめてその存在を知った身であるが、この事件が南京大虐殺につながるエピソードのひとつだとするなら、話は別となる。中国側の外交カードとして今もなお日本政府に突きつけられる南京大虐殺は、その被害者数に大きな差があるという点もふくめて、本当にあった出来事なのかどうかの議論が今もさかんであることは、私も承知している。そして南京大虐殺の是非がもたらすさまざまな問題は、そのまま「百人斬り競争」の是非がもたらす問題にも直結している。それは、被害者数や当時の南京の人口、また日本刀の性能といった瑣末な部分ばかりがクローズアップされていて、もっと重要な部分、私たちが本当に知り、そして覚えておかなければならない事柄について、ないがしろにされているのではないか、というひとつの疑問である。

 くりかえす必要はないと思うが、「南京大虐殺」がまぼろしだということは、侵略が正義だということでもなければ、中国にそしてフィリピンに残虐事件が皆無だったということではない。それは確かに厳然としてあった。第一、「恩威並び行われる皇軍」などというものは、私の知る限りでは、どこにも存在しなかった。

 日中戦争初期の南京攻略時に、ふたりの日本軍少尉が日本刀でどちらが先に敵を百人斬ることができるかを競ったとされる「百人斬り競争」――結果としてふたりの日本人を処刑台に送ることになった東京日日新聞(今の毎日新聞)の記事の原文は、本書のなかにも掲載されていて読むことができるのだが、たしかに著者の指摘するとおり、どこか現実味に欠ける要素の多い、まるで劇画を見るかのような雰囲気をもつものであることがわかる。著者自身の戦争体験は、この記事のさまざまなところに算出される不備な点、曖昧なぼかしについて、現役の日本軍兵士だった者の立場から指摘するためのものであり、戦場という異常な場において、命の危険性を常に感じなければならない兵士たちがどのような心情で新聞記者の取材に応じ、今にしてみれば誇張ばかりが目立つ、現実にはありえそうもない「武勇伝」を語るにいたったか、そのプロセスについての推測を語っている。

 正直なところ、この「百人斬り競争」の是非について、私はさほど興味をもっているわけではない。そして著者自身も上述しているとおり、その是非が定まったところで、過去に日本が犯した侵略戦争が正当化できるわけでもない。だが、本書を読んでいくうちに、そうした是非とはまったく別の部分で、もっと深刻な問題を本書が提示していることに気がつくことになる。それはたとえば、百人斬りを「ゲーム」ととらえたときの、そのルールから見た不備や、斬られた「敵」がはたして完全武装の兵士だったのか、あるいは捕らえられた非戦闘員だったのか、けっきょくのところいかようにも受け取ることができ、その空白を読者の想像力で補わなければならないような新聞記事が現実に書かれ、それが事実として報道され、そしてその検証がまともに行われないままに、記事の内容が現実のものとして通用してしまったという厳然たる事実である。その結果として人が処刑されてしまったことを考えると、それはあまりにも恐ろしいことだ。

 こうした新聞をはじめとするメディアがおこなう巧みな情報操作が、けっして戦時中のみの現象でないことを、私たちはようやく知ることができるようになってきている。1989年の朝日新聞における「珊瑚礁落書き」事件の自作自演などは、地元ダイバーたちの熱心な真相究明活動がなければ、おそらく今もなお現実のものとして適用されてしまっていたに違いない。ここでも重要なのは、この自作自演が発覚することと、現実に心無いダイバーたちによる環境破壊の問題は、けっしてひとつのものとして結びつくわけではないにもかかわらず、おそらくこの捏造記事を作成した記者のなかでは、自分の行為を正当化してしまっており、罪の意識すらなかったであろうという点である。

 同時に著者は、徹底したリアリストになることができず、ともするとまぎれもない現実よりは「情緒的満足感」のほうを尊重してしまう日本人の性質を、民族性の問題としてもとりあげている。いわゆる「判官びいき」的な感情は、私のなかにもたしかにあるものであり、それがともすると、読んだ本を評価するさいに少なからぬ影響をおよぼしていることも認めないわけにはいかないのだが、事実のみを報道するはずの全国紙の新聞記者が、そうした情緒に流されるというのは、私たちが考える以上に深刻な問題だと言わなければなるまい。

 戦後60年以上もの時間の経過を経て、私たち日本人は大きく変わったようでいて、しかしその根本のところでは何も変わっていないのかもしれない、という認識は、私たちひとりひとりが常にもっていなければならないものでもある。この書評の冒頭で紹介した『ルール』のなかに書かれていたひとつの通達――ある言葉が発せられるときに、その裏にあるもの、あるいは意図的に隠されてしまっている事実について、私たちはもっと注意深くあるべきであることを、本書はたしかに伝えるものである。(2007.08.21)

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