【新潮社】
『日本語の年輪』

大野晋著 



 私は日本語を母語としてもつ人間であるが、この、自分の母語がどのような言語であるかというのは、私たちが想像する以上に大きな影響力をもって、私たちの価値判断を決定づけているところがある。というのも、私たちがものを考えるさいには言語の力が必要なのだが、そのための「言語」とは、大抵の場合母語であるからだ。これは私が外国に移住し、ふだんの生活で外国語をもちいるような暮らしをするようになっても、本質的な部分は変わらないだろうと思われる。自分のなかにある、まだ言語化されない諸々の事柄を言葉として変換するのに、まず想起されるのは、幼いころから慣れ親しんだ母語である。

 私たちはものを考えるさいに、ごく自然に母語の言語体系をもちいている。あまりにあたり前のことすぎて、ふだんは意識することさえないのだが、これは言い換えるなら、私たちは言語という名の檻に常にとらわれた状態で生きている、ということでもある。言語活動を「世界を切り分ける作用」だと定義したのは言語学者のソシュールであるが、それに従うのであれば、私たちは母語にないものを見ることができないし、母語にない概念を理解することができない。たとえば、英語の「several years」がもつ言語概念を、日本語を母語とする私には理解することができない。「二年」のときもあれば「十数年」のときもある「several years」を、日本語の単語として厳密に置き換えることができないのである。

 近年の脳科学の進展によって、それまで個人の気質として片づけられてきた多くの現象が、じつは人間という生物に共通する脳の作用として、あらかじめ組み込まれたものであることが判明しつつある。脳のはたらきを理解することは、自分という個を理解する一助となっている部分があるが、それと同じようなことが、言語についても言うことができる。自分の母語となっている言語がどのような特徴をもち、その歴史においてどのような変遷をたどっていったのかを知ることは、その母語を身体感覚として身につけた自分自身を知るための手がかりとなる。今回紹介する本書『日本語の年輪』は、まさにそのタイトルにあるように、日本語という言語が積み重ねてきた「年輪」を追うための書である。

 日本の言葉が日本人の考え方をどのように決めて来たか、また、日本人の考え、感覚がどのように言葉に反映しているかを具体的に見ること、それは、歴史の表面に出て来ないで、しかも日本人の暮しの習慣や、それについてまわる感情や、判断の仕方などの本当の姿を、私たちに見せてくれるかもしれない。――(中略)――それは、明日、明後日とは言わないまでも、十年、二十年先の日本を、どう生きて行くのがよいかを考えるのに、一つの手助けになると思う。

 昭和三十三年秋から、朝日新聞の学芸欄に掲載された文章をまとめた本書の大半を占めるのは、ある日本語の単語の成り立ちと、その変遷をつづったものである。中学校や高校での古典の授業で、同じ日本語の単語であるにもかかわらず、現代と古典においてその意味が異なることを知ったときは、たんに面倒くさいという感想しかなかったのだが、よくよく考えてみれば不思議なことではある。なぜ、同じ日本語なのに、昔と今とでその意味が変わってしまうのか――もし言葉と言うものが、私たちの思考や感覚を無自覚に規定するものであるとするなら、言葉の変化は、そのままそれを使う人の変化を物語ることになる。

 たとえば、「うつくしい」という形容詞は、もともとは夫婦や親子、あるいは恋人といった関係の親密さ、小さい者への愛情を言い表す言葉で、美を表現するものではなかった。では奈良時代や平安時代の美を表わす言葉に何があるのかと言うと、それは「きよし」であったり「なまめかしい」であったりすると本書は語る。「なまめかしい」というと、今日では妖艶なといった意味合いになるが、語源的には「未熟めいている」という意味で、そこから「さりげなく、何でもないように見える」ことを言い表すようになったとされている。そしてそうしたよそおいこそが、当時の日本人にとっての最高級の美を指し示す言葉として定着したという事実――派手で鮮やかなものではなく、しめやかで何でもないようでいて、それでいて人を惹きつけるものこそが美しいという感覚は、日本語を母語としてもつ私にとって、妙にしっくりとくるものがあった。

 私にとってずっと違和感のあった事柄のひとつとして、恋愛感情がある。私が育ってきた社会では、たいていのメディアが恋愛というものを崇高なものとみなし、漫画でも小説でも恋愛ものというのは一大ジャンルを形成する勢力をもっていた。人間として生まれた以上、誰でも恋愛のひとつやふたつはするものだ、という恋愛至上主義が横行していた記憶があるし、私もそうしたものに影響を受けてきた。好きだと思った人、愛している人と一緒になる、最終的に結ばれるというストーリーは、それまで女性にとって(あるいは男性にとっても)不自由なものであった結婚観を一転させ、個人の自由と平等を謳う現代社会の象徴としても機能していたところがある。少なくとも家柄や身分といったものに大きく制限されていた時代に比べれば、自由恋愛がすばらしいものであることは理解できる。

 だが、誰かを好きになる、「愛する」ということが、具体的にどのような感覚なのかについて、いったいどれほどの人がまぎれもない実感として意識できているのか、という疑問が、私のなかには常にあった。本書によれば「愛する」という言葉は、明治時代以降に輸入されたヨーロッパ文学の「love」の翻訳としてあてはめられたものであり、それ以前はむしろ「愛らしい」といった使われ方をしていたと述べている。そして非常に興味深いのは、古典における男女の恋愛感情に、立場の上下関係が深く関係しているという点だ。長らく日本では、女は男よりも劣った存在であるという観念が息づいており、見下す対象である女をかわいそうに思い、憐れむ感情が恋慕の気持ちとして言語化されていた。

 男女が対等な立場であるという歴史そのものが、日本では比較的新しいものであるという事実は、生まれたときから自由恋愛が当然のこととして機能してきた社会しか知らない私にとっては、ひとつの発見だと言える。そして、母語である日本語の側面として、そうした身分的なものの影響が色濃く残っているのだとすれば、私の恋愛に対する違和感についても、一応の説明はつけられる。

 ヨーロッパで、男女が愛し合うというときには、その証人として「神」が大きな役割をしている。――(中略)――キリスト教の神は、唯一絶対の審判官である。その保証のもとにおいてのみ、対等な人間の愛がありうるとされている。しかし、そういう神や審判官は日本には古来無かった。

 「たちどころに」が「立って待っているうちに」という語源をもち、「大人」という単語から「おとなしい」が生まれてきたという本書の知識は、ある物事の起源をたどることのラディカルさともつながっている。自分がどのような言語を母語としてもっているのか、そしてその母語がどのような歴史を重ねてきたのかに意識的になることの重要さを、本書はたしかに教えてくれる。それはもしかしたら、自身のなかにある言語化できない違和感の正体を指し示してくれるものかもしれないのだ。(2014.12.21)

ホームへ