【光文社】
『ジェイン・エア』

C・ブロンテ著/小尾芙佐訳 



 人間のもつ理性と感情について、ふと考える。

 たとえば、世界にはいつ終わるとも知れない紛争でふつうの日常生活すら脅かされている人たちや、貧困でまともな医療を受けられずに苦しんでいる人たちがいる。そして、そんな人たちのことをまのあたりにして、どうしても放っておくことができず、文字どおり現地で体を張って活動している人たちがいる。他人の痛みを自分のことのように感じる想像力は、人間が人間であるがゆえの心の作用であり、そこから生み出される博愛主義に殉じようという精神、その高潔な意思の力を否定する者はいないに違いない。

 弱い者、救いを求める者を、見返りなしに助けるという行為は、人間がもちえる理性の究極の形だと言うことができる。だが、その高潔な意思とは別に、そんな彼らの恋人や配偶者、あるいは両親といった血縁の者たちが、彼らの行為を手放しで喜んでいるとはかぎらない。紛争地域での活動は、常に命の危険にさらされているし、衛生状態も良好というわけではない。だからこそそこに住む人々は助けを求めているわけだが、自分にとって親しい人、大切に思っている人が、そんな危険な場所で活動するのは気が気じゃない、というのが正直な思いだろう。もし私が人の親だったとしても、自分の子どもがそのような活動に従事することには難色をしめすという確信がある。

 人はその気になれば、意思の力でどこまでも強くなることができる。だがそのいっぽうで、私たちひとりひとりはちっぽけな人間でしかなく、神の愛や博愛といった、見ることも触れることもできないものよりも、身近にあって感じることができる特別な人の愛情を――自分の存在が誰かに求められ、認められているというたしかな思いを得たいという欲求もある。今回紹介する本書『ジェイン・エア』について、恋愛小説の王道であるという認識はけっして間違いではないが、一人称の語り手であるジェイン・エアの理性と感情という点から本書をとらえたときに、この両方を相互に満たすような、ある種の究極の恋愛とはどういうものなのか、という観点が見えてくることになる。

「罪深い流浪をつづけたが、いまは安息を求め、悔い改めているものが、やさしく慈愛に満ち、心の温かい新たな知己を永遠にわがものとするために――それによって心の安らぎと再生を得るために、世の常識に逆らうことは正しいことだろうか?」

 ジェインの基本的な立ち位置は、理性の人だ。理知的なものの考え方をし、常に落ち着いた態度で人と接し、できるだけ感情を表に出さないように勤めている。だがそれは、あくまで外面上のことであって、彼女の感情が乏しいということを証明するものではない。むしろその心の奥に、激しい感情がひそんでいることは、彼女の幼年時代の態度を振り返ればおのずとわかってくることである。幼くして両親を亡くし、引き取られた伯母の家で不当な扱いを受けてきたジェインは、感情のおもむくままに行動することが、逆に自分を追いつめ、自分の存在が歓迎されていない親戚のなかで不利な立場に貶めることを学んだ。そして寄宿学校という「自由」を勝ち取ったのも、感情ではなく理性の力によるものだったという認識がジェインにはある。つまり、彼女が世のなかでまともな生活をしていくために、理性の力はなくてはならない武器でもあった。女性の自立という概念がまだまだ乏しい十九世紀初頭のイギリスであれば、なおのことだ。

 だが、そんな彼女の理性を――きわめて常識的な判断を狂わせる男性が登場する。成長し、寄宿学校の教師となっていたジェインは、尊敬するテンプル院長の死をきっかけに、家庭教師として自立する道を歩むことになるのだが、その雇われ先の館の主人であるロチェスターにどうしても惹かれてしまう自分に気づいてしまう。傍若無人で気まぐれ屋、厳格で気難しい一面をもつロチェスターではあるが、彼のジェインに対する態度には、それまで彼女が味わってきた人を蔑み、貶めようとする心黒い部分は感じられなかった。あくまで主人と、彼に雇われている家庭教師という立場を忘れることなく接してきたジェインであるが、彼がさる令嬢との婚約を考えていることを知るにつけ、それまで抑えてきた感情が否応なくロチェスターへと傾いていくことを認めずにはいられなくなる。

 ロチェスターという人物は、けっして万人に好かれるようなタイプの男性ではない。過去に犯した過ちのせいもあって、むしろとっつき難い印象を周囲に抱かせる人物であるのだが、人間の悪意というものにことさら敏感なジェインが、ロチェスターに惹かれるというシチュエーションは非常に興味深いものがある。誰かを愛するという感情は、なかなか言葉で説明するのが難しいものであるが、ともすると人から誤解されやすいロチェスターの性格について、ジェインがその真意を見抜いているということを、彼女の生い立ちが説得力をもたせる材料として機能しているのがわかるからである。

 本書がジェインの一人称であるということも、彼女の恋愛感情を表現する手段としてひと役買っている。一人称であることは、自分の見聞したことしか書けないという制約があるいっぽう、自分の心理については何の制約もなしに表現できるという利点をもつ。うわべでは控えめな態度をとりながら、内面ではロチェスターが好きだという激しい気持ちを描くことは、それだけその差異を――ジェインの恋愛感情の深さを際立たせることにもなるのだ。

 ソーンフィールドの館にまつわる秘密という、ちょっとしたミステリーとしての一面も持ち合わせてはいるが、本書のメインがジェインとロチェスターとの恋愛の行方にあることは間違いない。そして本書があくまで恋愛小説であるとすると、その結末もまたおのずと予測できるし、またそうでなければならないとも思う。だがそれとは別に、本書のテーマとして理性と感情のせめぎ合いがあることも忘れてはならない。自立した女性として、あくまで理知的に生きていこうとするジェインは、容易に自身の感情におぼれることができない。そんな彼女が、それとは対極にある恋愛感情に戸惑い、揺さぶられていくさまは、まさに人間ドラマそのものでもあるし、だからこそ彼女の人間らしさが生きてくることにもなる。そしてそのテーマは、本書のラスト近くにおいて、究極の二者択一という形で演出される。

 親族であるがゆえの愛や人類愛など、本書のなかにはさまざまな愛の形が出てくるが、とくに理性の象徴としての「神の愛」が頻繁に登場する。これはジェインのその後の運命を決定づけるものとして、最後まで彼女を悩ませる種となるのだが、そうした点もふくめて、ジェインがどのようなきっかけで、どんな形の愛を選びとることになるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。誰かと誰かが結ばれること――それこそがもしかしたら、おおいなる神の導きでもあるかもしれないと、あるいは信じたくなるものが、本書にはたしかにある。(2010.10.08)

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