【新潮社】
『十兵衛両断』

荒山徹著 



 もし、あの剣豪柳生十兵衛と同じ人間がもうひとりいて、お互いに剣を交えるようなことになったらどうなるか?
 最終的には大名の地位を手に入れ、将軍家の兵法指南役として柳生新陰流の名を世に押しあげた柳生但馬守宗矩のクローンが敵となって何人も襲いかかってきたとしたら?
 柳生新陰流の開祖である石舟斎と、その彼に剣術を伝授した聖師、神泉伊勢守とが直接対決したら、はたしてどちらが勝つのか?
 柳生新陰流の使い手でありながら、陰陽師としても類まれな才能を開花したスーパーヒーローがいたとしたら、どんな活躍を見せることになるのか?

 およそ、まともに考えることさえためらわれるようなトンデモ設定を、あえてひとつの物語としてまともに機能することを目的として書かれたのではないか、とさえ思わせるような本書『十兵衛両断』は、表題作をふくむ五つの短編を収めた作品集であるが、本書の大きな特長は、そのB級娯楽活劇的な設定を、いずれも朝鮮妖術というさらに怪しげな要素とかけ合わせることによって生じる、ある種の怪異な魅力だと言うことができる。何しろ、豊臣秀吉の朝鮮出兵のさいに、柳生一族のひとりが兵士として足を踏み入れ、以来その地で朝鮮柳生とも言うべき分派が派生した、という設定をぬけぬけと書いてみせる本書である。どのような展開が発生しても不思議ではない、と思わせる雰囲気が、その短編集のなかにはたしかにある。

 ときに講談風にその時代背景や登場人物の紹介を差し挟み、あるいは朝鮮や日本の文献を頻繁に引用することによって、屁理屈といえなくもないリアリティーを付加することを忘れない本書は、たとえば山田風太郎の忍法帖シリーズや、あるいは隆慶一郎の『影武者徳川家康』の流れを汲む時代小説だと言うことができるのだが、本書の主人公というべき柳生十兵衛をはじめとする柳生新陰流の使い手たちが直接的に戦うことになるのは、いずれも同じ柳生新陰流の使い手であるという展開、そしてその裏で朝鮮出身の輩が怪しげな妖術をもちいて恐るべき陰謀をたくらんでいるという展開を考えたとき、日本と朝鮮というふたつの国におけるその時代背景、そしてそこで少なからず国家権力とのつながりをもつことになった人たちの、その怪しげな設定以上に数奇な運命を思わずにはいられない。

 剣とは殺人の道具であり、剣術とは殺人術であるという事実――各国の武将たちが天下統一という大きな野望のために剣を振るってきた戦国時代であればともかく、徳川家康によって天下の平定がなされた江戸時代において、剣術が形骸化の道をたどることは、いわば時代の趨勢である。本書に登場する柳生新陰流の使い手たちは、いずれも恐るべき剣術の持ち主であることは間違いない。だが不幸なことに、彼らはその類まれな剣術を充分に生かせる時代に生きてはいない。そして、ごく一部の例外をのぞいて、彼らはその事実に対して大きな鬱屈をかかえている。表題作である『十兵衛両断』では、朝鮮の妖術「ノッカラノウムの仮面」によって、十兵衛と朝鮮の妖術師とのあいだで魂の入れ替わりが起こってしまうという話であるが、その十兵衛の肉体を奪って朝鮮に戻った柳三厳が、その意思とは無関係な部分でさらなる戦いと野望――自分の剣術をもっと認めてくれる場を求めて日本に舞い戻ってくるという展開は、そうした剣に生きる者たちの心をもっともよく反映しているエピソードだ。

 柳生新陰流を謀略の剣、幕府安泰に必要な汚れ仕事のために振るうことで、幕府内の地位を築くことを目指した但馬守宗矩、その生涯を剣にささげながらも、なお幕府の大名という世俗の欲望をついに捨てきることのできなかった石舟斎、そしていったんは想像を絶する刻苦修練のはてに奇蹟の再生をはたしたものの、自分の剣の強さをさらに磨くために、さらなる戦乱の地を求めて驚くべき謀略に走った十兵衛――そうした剣士として本来の力を発揮できずにいるという鬱屈した精神は、戦乱の収まった日本よりは、むしろ豊臣秀吉による朝鮮出兵からはじまって、清の侵略、独立を望む者たちの内乱、さらには清の打倒を目指した北伐と、常に争いの火種の絶えない時代の渦中にあった朝鮮半島にこそふさわしいものがあると言えなくもない。だが、少なくとも本書における朝鮮国の位置づけは、彼ら剣士を外道へと陥れるものでもある。なぜなら、柳生新陰流の敵となる朝鮮の者たちは、いずれも妖術や策略をもちい、けっして彼らと同じ剣で戦うことなく、むしろ彼らを同門どおしで争わせるように仕向けるものばかりだからである。

 基本的に武芸を軽んじる風習のあるとされる朝鮮――争いごとを好まないと言えば聞こえはいいが、その裏にあるのが兵士をあくまで身分の低い職としてしか見ようとしないという心にあるとすれば、彼らの戦いの手段が妖術ばかりであるという事実もうなずけるものがある。そしてそのことによって、柳生新陰流の者たちは、必然的に剣士たる自身の心との戦いを強いられることになる。それはけっきょくのところ、平和な時代における剣術に、どのような意味があるのか、というその存在意義を問う戦いでもある。

 敵である朝鮮妖術の使い手たちのやり方は、たしかに「正々堂々」という言葉とは無縁の、ある意味卑劣なものばかりであるが、ひるがえって柳生新陰流の者たちに目を向けたとき、本当の意味で剣の道に生きた者たちが、はたして何人いたのだろうか、という問題へとつながっていく。そこにあるのは、人間としての欲望を優先させ、その手段として剣術を利用しようとする外道の道でもある。それゆえに、彼らは朝鮮妖術の前に敗北を喫したと言ってもいい。本書のスタンスが、本来であれば主役として活躍すべき柳生十兵衛という人物でさえ、あくまで登場人物のひとりとしてきちんと距離をとって描こうとしているのも、そうした本書の本質とけっして無関係ではない。

 ひとつの剣術が、外道へと落ちていく過程――本書はたしかにB級娯楽活劇の体裁をとってはいるが、純粋にその活躍を楽しむのではなく、むしろ人間であるがゆえの心の闇を、朝鮮妖術という媒介をつうじて現出せしめた作品でもある。時代小説としてはこのうえなく異彩を放つ本書のなかに、読者ははたしてどのような思いをいだくことになるのだろうか。(2007.04.24)

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