【光文社】
『ニッポンの書評』

豊崎由美著 



 人は何かに感動したとき、その感動をなんとかして他の誰かに伝えたいと願うものだ。なぜなら、心を大きく揺さぶられる出来事というのは、自分ひとりよりも多くの人たちと共有したほうが、その喜びもまた大きなものとなることを知っているからである。おそらく、書評というものの原点には、そうした心のはたらきがあったのではないかと考えるのだが、その背景には、私がインターネット上で書評サイトを立ち上げることになった経緯が深く関係している。

 当時のインターネットは、企業だけでなく個人でもようやくホームページが公開されるようになった頃で、仕事の関係でインターネットに触れた私は、そこで何人もの人たちが本の紹介を行なっているのをまのあたりにする機会を得た。面白そうな本やこれまで私の知らなかった小説などを探すのに、インターネットという場が意想外に役に立つ――むろん、それだけならわざわざ自分のサイトなどつくる必要はなかったのだが、自分でもホームページをつくり、情報を発信する側にまわったのは、自分の得た感動が、インターネット上の書評という形で、別の誰かに伝わっていくというたしかな手ごたえを覚えたからだと今では思っている。

 ブログが主流となり、誰でも簡単にインターネットで情報を発信できるようになった今、どんな本であっても誰かが必ず何らかの感想や書評を挙げているばかりか、Amazonをはじめとするオンラインショップにさえいくつものレビューがつくようになった。そうした状況は、情報が増えるという意味では喜ばしいものであるはずだ。だが、面白そうな本を探したいと思ったときに、その多すぎる情報が、むしろ目的達成の邪魔をしているように思えてしまうのは、はたして私だけだろうか。今回、本書『ニッポンの書評』に目をつけたのは、インターネット上に氾濫する本の情報と、そもそも「書評」と呼ばれるものの違いがどこにあるのか、そして自分のサイトにつけている「書評」が、はたしてどこまで本当の書評としての役割をはたしているのか、という疑問があったからに他ならない。

 わたしはよく小説を大八車にたとえます。小説を乗せた大八車の両輪を担うのが作家と批評家で、前で車を引っ張るのが編集者(出版社)。そして、書評家はそれを後ろから押す役目を担っていると思っているのです。

 以前、インターネット上で知り合った方のひとりに、「書評という言葉には上から目線の傲慢さを感じる」と言われて呆然とした体験があるが、本書における書評の立ち位置は、あくまで読者に向かって書かれなければならない、というものである。それを読んだ読者が、そこに紹介された本を読みたくなるような書評――それが達成されるのであれば、どれだけ型破りな書評であってもかまわないし、むしろ著者自身がオーソドックスな書評の書き手であるだけに、そうした突き抜けた書評を好むところもあるのだが、それはあくまで上述の大前提を守っていればの話。自分の知識をひけらかすだけの書評や、あきらかに提灯持ちな書評、まともに読んでいないことがあきらかなネット上の書評まがいの感想など、読者の興味を惹くどころか、本の作者の足をひっぱるだけの書評については、このうえなく厳しい態度をもっていることが、本書からはうかがえる。

 ミステリーなどのネタばらし(「ネタバレ」と言わないところに、著者の言葉へのこだわりを感じる)に言及しているのも、書評を読む人への配慮があるからに他ならない。作品によっては、仕掛けられた謎こそがすべてであり、その点に触れなければ粗筋紹介すらままならないと思えるものもあったりするのだが、そのネタばらしを避けつつ、しかし読者にその作品への興味を喚起させるような書評を書くことが、著者のいう「書評家」の役割だと説く。

 日本と海外の書評の違いや新聞書評の字数、あるいは批評と書評の違いなどにも触れつつ、日本における書評の役割を著者なりにまとめた本書は、本の読み手というよりは、私もふくめた有象無象の書評めいた感想の書き手、とくに、ネット上で本の感想に触れている人たちへ向けられたものという意図を感じる。というのも、本書を読んでいくとわかるのだが、書評はとりあげた本の魅力を読者に伝えるものであれば、形式や書き方など自由でいい、という姿勢があるものの、では何をもって読者のためなのか、ということを考えたとたん、書評というものの不自由さ、書くことの難しさを痛感させられるからである。

 たとえば、五段階評価なるものがある。Amazonのブックレビューの機能にもあるが、もし単純に、手っ取り早く本を探したいというのが読者の意図としてあるのなら、五段階評価はこのうえなく有効で、とりあえず星五つの本を読めばいい、ということになる。だが当然のことながら、五段階評価だけでは本を選ぶ指標とはなりえないし、星の数だけで表現できない本の魅力というものもある。とはいえ、あまりにその本のことを解説しすぎれば、読者はそれだけで満足してしまい、本を手にとろうとしなくなるかもしれない。そもそも、面白い本を探したいという読者が、長い文章を読むだけの時間を割いてくれるかどうかも疑問である。

 けっしてネタばらしをせず、長すぎず、かといって簡略すぎず、しかも個性的であって、かつ紹介した本の魅力を充分に伝えている書評――それは言ってみれば、書評そのものがひとつの芸術作品に匹敵するものだとしたうえで、それを目指すものだという著者の矜持のあらわれでもある。つまり、それだけ質の高いものこそが、書評なのだということである。そのうえ、時と場合によって最適な形式を模索するだけの柔軟性さえも本書は求めているのだ。

 このサイト名には「書評」という言葉が入っているが、サイトを公開した当初は、書評に対する矜持とかいったものがあったわけではない。ただなんとなく、「ブックレビュー」の代わりになるような言葉、といった程度の意識だったように思う。だが、サイトの方針が決まり、それを満たすような感想文を書こうとしているうちに、知らずと本書が目指す「書評」のありかたに近づけたい、という気持ちはあった。もっとも、本書を読むかぎりにおいて、書評への道はまだまだ遠いと実感させられたのも事実だ。それほど書評というものは、奥が深いということである。(2011.05.09)

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