【新潮社】
『コンゴ・ジャーニー』

レドモンド・オハンロン著/土屋政雄訳 

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 ランプの光を光源とする小屋のなかで、女占い師がふたりの白人を相手に占いをおこなっている。マットの上に散らばった貝殻――女は白人のひとりがかつてかかっていた重い病気を言い当てる。もうひとりの白人が、今回の旅行の目的を語る。テレ湖にいるというモケレ・ムベンベを見たいと彼は言う。それに対する占い師の答えは不吉なものだった。今回の探検が2ヶ月以上かかるようであれば、お前は死ぬ……。

 今回紹介する本書『コンゴ・ジャーニー』は、おそらく1980年ごろと思われるアフリカのコンゴ人民共和国(現コンゴ共和国)に広がる、未開のジャングルを探検した著者の旅行記である。けっして遠い過去のアフリカの話ではない。ほんの10年か20年ほど以前のアフリカだ。その証拠に、町に行けば道路があり、タクシーが走っているし、近代的な建物があり、雑貨屋があり、貨幣経済が成り立っていてふつうに買い物をすることができる。飛行機も飛ぶし、空港もある。兵隊は銃で武装しており、役人は賄賂で私腹を肥やしている。だが、そうしたきわめて現代的な光景と同時に、本書のなかには呪術や霊、占いといった存在がふつうに信じられている世界が息づいている。マラリアなどの病気に西欧の薬を求める人がいるいっぽうで、呪い師の施す治療を信じ、病気を治す人たちがいる。夜になれば動物に変身して森を彷徨い、模型の飛行機は本物の飛行機となって呪い師を乗せて飛んでいく。そして、そんな魔術的な世界を象徴するものとして、幻の恐竜モケレ・ムベンベがいる。

 はたして、モケレ・ムベンベとは何なのか。それは本当に、現代に生きる恐竜なのか、それともまったく別の新種の動物なのか。ごく常識的に考えれば、はるか大昔に絶滅したはずの恐竜が生きているはずがないのだが、アフリカ大陸における共産主義国家であり、それゆえに入国することすら困難なコンゴ人民共和国は、未踏地のジャングルが何万年も変わらない姿をとどめている、言ってみれば地球上における最後の秘境を所有する国でもある。もしかしたら、ひょっとしたら、生きた恐竜が生息していても不思議ではない唯一の場所かもしれない、という期待とともに語られる本書であるが、以前にモケレ・ムベンベを見たというコンゴの生物学者マルセラン・アニャーニャや、オックスフォード大学時代の友人であり、今は動物行動学の教授であるアメリカ人のラリー・シャファーといった個性的な者たちを引き連れての今回の探検は、旅立つ以前からさまざまな障害が待ちかまえている。入国の許可を得るだけでも大変なのに、一定期間以上滞在するのにも、国内を移動するのにも許可が必要で、そのたびに役人とかけあい、それなりの賄賂を渡さなければならない。もちろん、現地で探検チームを組織するのにも金がかかるし、訪れる村に住む部族の世襲村長にも贈り物が必要となる。

 本書を読んでまず驚くのは、ことあるごとに物品なり金銭なりを用意し、それらを贈り物として現地の人たちに配っていかなければ先に進めないという現実である。そして、そんな場面においても、役人の許可といった現実的な側面と、ジャングルや湖といった場所を彷徨う悪い霊を退け、古き神々たちの怒りを抑えるといった神秘的な側面の両方が混在している。こうした、いっけん相反する要素が同じ世界で、どちらもあたり前のことのように展開していく、というのが本書の大きな特長のひとつであるが、この探検記の語り手である著者自身、モケレ・ムベンベを目撃したというテレ湖にまっすぐ向かえばいいはずなのに、わざわざ大回りして北のジャングルを通っていくというコースを計画する。そうした意図を考慮に入れたとき、著者の目的がただたんに生きた恐竜をこの目で見たい、というだけでは説明のつかないものがあることに気づくことになる。

「こう……感じるものがあるんだ。いろいろな村を通って、ジャングルでピグミーを見つけて、ゴリラやチンパンジーやオナガザルやゾウを見ていったら、アフリカ人のものの考え方・感じ方に少しは触れられるだろう。そうしたら、テレ湖に何があるのか、現地にたどり着く前にわかるんじゃないかと思う」

「じゃ、わかった時点で行く必要もなくなるな」と切り返すラリーとの、漫才のような言葉のやりとり――今回の探検にあまり乗り気のないラリーと、意欲まんまんの著者の温度差が生み出す独特のユーモアもある本書は、純粋な探検記、自分がどこで何をしたのかという記録という意味では、けっして要領を得ているというわけではない。その冒頭が女占い師の占いの様子からはじまることからも、著者は今回の探検で自身が見聞したことばかりでなく、それとはいっけん何の関係もなさそうな事柄、たとえば自身の過去の記憶や、マルセランたちの現状に対する不満、あるいは夢か現実かもさだかではない幻との哲学的な問答といったものまで、細大漏らさず書き記していこうとしているように思える。整然と体系だった記録とはいいがたい探検記――そこにあるのは、著者自身のかかえる大きな混沌、論理や理性といったもので形づくられてきた文明人としての個という枠がかぎりなく曖昧になっている、という意味での混沌である。そして、それはコンゴという国がかかえている混沌につながっていくものでもある。

 未開のジャングルで生きるピグミー族や生きた恐竜、呪い師といった要素に私たちがいだきがちなロマンとは裏腹に、コンゴという国では社会問題としての貧困がはびこり、政治腐敗や戦争があり、病気が蔓延して人々があっけなく命を落としていく。じっさい、本書のなかでも川に子どもが落ちたり、銃が暴発したりといった理由で人が死んでいる。他国からの密猟者も大きな問題のひとつだ。本書はさながら、コンゴというひとつの世界を委細漏らさず詰め込もうとするかのようなものだ。だが、言うまでもなくそんなことは不可能に近い試みである。そして事実、本書は探検が進んでいくにつれてその混沌の度合いがますます大きく、深いものになり、まるで著者の妄想世界であるかのような光景が描かれていく。それは、ことあるごとに描写される動物や鳥の記述にも表われている。最初は持参した図鑑などで確認したうえで、それがどのような名前の生き物なのかを書いているのだが、そのうちそうした確認作業そのものが失われていくのだ。まるで、科学による系統づけなど、何の意味もないと断じるかのように。

 蚊やハチなどに刺され、マラリアにかかり、慣れないジャングルを何時間も歩き、猛獣の気配に怯え、部族どおしの問題に巻き込まれ――そんな、並大抵の苦労ではすまない思いをするために、著者は全財産を用意してきたという。はたして彼らは、無事テレ湖にたどりつくことができるのか、そしてテレ湖には、生きた恐竜が本当に住んでいるのか。それは、著者にとって今回の探検の目的であることは間違いないが、それ以上に深い何かを求めているということを、読者は本書を読み進めることで知ることになる。人類発祥の地だと言われているアフリカ――そこには、私たちが高度で複雑な人間社会を生きていくうえで捨てていったものが、未分化の形で残されていると言うことができる。その混沌のなかで、はたして彼らが何を発見し、どのような思いを残すことになるのか、ぜひともその探検の過程を彼らとともに体験してもらいたい。(2009.02.26)

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