【幻冬舎】
『いとしい』

川上弘美著 



 人間は人と人との関係のなかで生きているようなものだ。逆に言えば、だれとも関係をもつことなく生きつづけることなど、今の世の中では不可能だろう。だが、私はときどきふと思うことがある。私たちはお互いに関係しあって生きているのに、そんな人々と意思の疎通をとるのは、なんと難しいのだろうか、と。どんなに言葉を尽くして説明しても、どれだけ誠意をもって接しても、自分の想いが必ずしも、自分の考えているとおりに相手に伝わっているとは限らない――むしろ、自分のことばは常に、多かれ少なかれ何らかの誤解を相手に抱かせると考えたほうがいいのではないか、とさえ思うこともある。
 物語を語る、という行為――膨大な量の言葉を尽くしてたったひとつの「想い」を伝えるという、まったく非効率的な行為が、ときにどんな説明よりも他人の心に理解をもたらすことがある、という事実は、あくまでコミュニケーションの道具としてあるはずの言葉のはたらきを考えると、なんとも不思議なものである。

 本書『いとしい』は、ユリエとマリエという姉妹がそれぞれに体験する恋の物語である。「恋の物語」などと書いてしまってはいるが、では本書がいわゆる「恋愛小説」のたぐいに属するものなのか、と問われると、少しばかり首をひねらざるを得ない。というのも、本書の特色として、登場人物の心理をえがいている箇所が極端なまでに少なく、ユリエやマリエが、付き合っていた男の人に対して本当はどのような感情を抱いていたのか、はっきりとはわからないようになっているからである。とくに、マリエは一人称という立場にあり、自分の感情をストレートに表現できるにもかかわらず、基本的に自分や他の人がいつどこで何をしたのか、という状況説明に、あえて徹しているように思われる。ただ、ふたりが小さい頃から、天井にこもっては「お屋敷ごっこ」と称する恋愛劇のような遊びをしたり、父親が描いていた春画を持ち出しては、その体位をふたりで真似してみたりしているところから、少なくとも人を愛することに関して、あるいはそれなりの用意があったのではないかと考えることはできる。

 やがて姉妹は成長し、ユリエは大学の修士過程に進み、マリエは私立のある女子高校の国語教師になる。そしてふたりは、今度は遊びではない本当の恋人を見つけ、本物のセックスを体験することになる。だが、そうなってもなお、本書はあくまでそれぞれの物語として、ふたりの恋愛を語ることをやめようとはしない。いや、むしろふたりだけでなく、ふたりを取り巻くさまざまな人間の物語をも取り込んで、読み手を少しずつ少しずつ、現実の世界から物語の世界へと引きこもうとする。そこは、マリエの教え子であるミドリ子の体の一部がセックスのたびにねじれたり、父の春画のモデルであったアキラさんとマキさんの幽霊が出てきたり、ユリエの恋人であるオトヒコさんが膜に包まれて休眠したり、そしてそれぞれが、物語のなかであるにもかかわらず、嘘かホントかよくわからない物語を語ったりする、そんな世界である。

 人を好きになる、というのは、いったいどういうことなのだろう――本書を読んで、私はふとそんなことを考える。たしかに、人は恋人をつくったり、セックスをしたりする。そしてそのような行為は、誰とでもするわけでもないだろう。だが、肉体関係をもつ異性が即、自分が好きになった人である、という等式が必ずしも成り立つわけではないのは、今の世の中の、すっかり複雑になってしまった人間関係を思えば当然の帰結だと言える。「そこいらじゅうが恋または愛またはそれに類するものに満ちあふれている」とマリエは思う。だが、その恋または愛またはそれに類するもの、というのは、いったいどういうものなのだろう。何をもって、自分はその人を好きになったのだ、と決めるのだろう。自分の気持ち? 永遠など存在しないとわかりきっているこの世の中で、もっとも不安定であてにならない人の気持ちなど、どれだけあてになるだろうか?

 マリエには、数をかぞえるという不思議なクセがある。彼女は暇さえあれば数をかぞえる。自分が歩いている道の電信柱の数、姉とおこなったトランプのゲーム回数、自分の目の前を通った人の数、そして、恋人の紅郎と会った日数――マリエにとって、紅郎が何回自分と会ってくれたか、何回頭をなでてくれたか、何回「好きだ」と言ってくれたか、そういった客観的事実こそが愛情の度合いなのだろう。だが、そんな彼女が「数をかぞえること」に執着しなくなったとき、人を愛するという行為が外から与えられるものによってではなく、自分がそうしようと決意することによってはじめて育まれるものなのだという事実に気づくことになる。

 人の心はたしかに不確かなものだ。体の一部がねじれたり、膜に包まれた体が少しずつ変化したりするのと同じように――いやそれ以上に、人の気持ちだってねじれたり変化したりする。だが、そういった移り変わる気持ちを含めたすべてを愛そうと自分で決める勇気こそが、ようするに人を好きになることなのではないか。長くて複雑に入り組んだ物語には、そんな著者のひとつの「想い」がこめられているように私には思える。(1999.11.20)

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