【講談社】
『絃の聖域』

栗本薫著 

背景色設定:

 かつて、武士の世界では「切腹」という習俗があったとされる。主君を守ることができなかったり、戦に負けたりといったときに、その無念や恥辱を注ぐ自死方法として認識されていたものであるが、仮にそれが武士道を貫くためとはいえ、自分で自分の腹を捌くような行為は、同じ日本人ではあるものの、現代という時代に生きる私には到底真似できるものではないと思うし、むしろそれが大半の正直な気持ちであるに違いない。だが逆に言えば、私たちのそんな気持ちは「今」だからこそのものであって、もし自分が江戸時代の武士として生まれ育ったとしたら、自分を取り巻く武家社会によって、あるいは「切腹」に対する姿勢はもっと別のものになっていた可能性も、まったくないとは言い切れない。

 スタンフォード監獄実験の例を挙げるまでもなく、人間の意思や心のありようというものは、私たちが思っている以上に周囲の環境によって影響を受けるものであり、その内部で生きている者たちにとっては、たとえそれが外の世界の異常であったとしても、ごくあたり前のものとして受け入れてしまうものである。ある種のミステリーがしばしば閉鎖空間を舞台に展開していくのは、けっして理由のないことではない。殺人事件という異常事態をより怪異なものとして印象づけるためには、科学技術の発達した現代社会からいったん隔離された場をもちいたほうが効果的であり、江戸川乱歩や横溝正史といったミステリ作家は、そうしたおどろおどろしい雰囲気を生み出すことに長けていた。今回紹介する本書『絃の聖域』も、そうした古き良きミステリの系譜を色濃く反映したものとなっている。

「――ぼくたちがいま立っているところは、過去と、現代の、ちょうど境目なんですよ。この塀からむこうは、和服と長唄の世界。この塀のこっちは、自動車がごうごう通る、現代の世界――この中の人たちって、ぼく考えていたんですが、みんなどことなく、芝居の中の人物めいているとは思いませんか」

 長唄の人間国宝、安東喜左衛門の家元である日本家屋で起こった殺人事件の顛末を描いた本書には、探偵役となる伊集院大介が上述の台詞でも語っているように、かなり明確な「内と外」の境界線が敷かれている。物理的には、安東家の邸宅を囲う塀という形をとっており、その塀の内側では、まるで時代が止まってしまったかのような伝統芸能の世界が今もなお息づいている、という設定だ。こうした印象は、最初の事件の捜査のために邸宅にやってきた代沢署の山科警部補も感じていたことであるが、それは邸宅の純和風な調度の数々や人々の和服姿、三味線などの和楽器といったものだけでなく、そこで暮らしている安藤家の人々や、その関係者たちの精神的な部分も大きく関係している。

 もともとミステリにおける閉鎖空間は、言ってみれば王道パターンのひとつではあるが、本書の場合、塀に囲まれた安東家の邸宅という物理的閉鎖空間は、そこで事件を起こすためというよりは、むしろそこに住まう人たちの、ある種の閉鎖性を象徴する道具立てとしての役割の方が大きい。じっさいに最初の事件である女弟子の殺人は、邸宅の中で起こったものの、被害者は塀の外まで出たうえで絶命していた。そしてこの事件を機に、外の人間である山科や伊集院のような人物が、内側に生きる人たちの世界に介入するという形となったことを考えれば、著者がそうした内側の世界の物語を描くことを本書のメインととらえていたとしても不思議ではない。

 だが、その「内側の世界」をのぞき見るのは、けっして容易なことではない。何より私たち読者もまた外側の世界の常識のなかに生きる人間であり、殺人事件を捜査する警察も同様である。そして、本書を読んでいくとすぐにわかることであるが、安東家の邸宅内における人間関係は、まさに時代がかった閉鎖空間にふさわしい、複雑怪奇な様相を呈しており、それが事件の真相をさらに見えにくくするという構造になっている。

 たとえば、喜左衛門の弟子のひとりである喜之助は、そのたぐいまれなる長唄の腕前ゆえに、喜左衛門の美貌の娘である八重の婿として安東家に入ったが、そのことで兄弟子たちの恨みや妬みを買うことになった。しかも八重と喜之助の夫婦生活はすっかり冷え切っていて、どちらも愛人を公然と囲っており、喜之助にいたっては愛人のひとりを自分の邸宅内に住まわせていたりする。妻と妾が同じ敷地に暮らすという、およそ尋常とは言いがたい家庭環境は、当然のごとく彼らの子どもたちにも影響を及ぼしており、母と娘がひとりの男を奪い合ったり、妻と妾それぞれの息子が同性愛的な関係を結んでいたりと、誰もが誰かを強烈に愛しているか、強烈に憎んでいるという状況である。

 警察の捜査によって浮かび上がったのは、有り余るほどの殺人の動機――しかしながら、殺されたのはそうした動機とは程遠い位置にいたはずの女弟子であるという矛盾は、さらなる惨劇を予感させるのに充分な不可解さを想起させる。そしてその不可解さに論理の光を当てるのは、やはり警察ではなく探偵であるべきだという思いがある。そう、本書の一連の事件は、まさに探偵の活躍を期待させるものがたしかにあるのだ。

「この事件は、何ていうのか――おもてとうらが逆になっている絵、みたいなもんだ――とね。――(中略)――これは、正攻法でいったって、かたがつくわけはないんですよ。とにかく、この事件の最大の特徴はね、先生、漠然としている、形がはっきり見えてこない、ということですよ。――」

 ミステリにおいて、事件の謎を解くのは探偵と相場が決まっているが、上述の山科警部補の台詞は、プライドと自負の強い警察としては異色のものだ。だが、警察があくまで外の世界の論理しか持ちあわせていないという意味では、正当なものでもある。もともとは八重の息子である由紀夫が通う塾講師(ただし、生徒は由紀夫だけ)という立場にある伊集院大介が、本書における探偵役でありながら、その口癖が「ような気がする」だというのは、ある意味で警察の対極の論理を象徴するものである。塀のなかに囲まれた、まるで誰もが演劇の登場人物であるかのごとく、何らかの役割を負わされて生きる世界――私たちのよく知る外の世界とはまったく異なる、異質な常識、異質なルールを理解するためには、伊集院のような探偵の存在は、やはりひとつの必然だと言える。

 今の私たちにとって、「切腹」を行なう人たちの心を理解することが難しいように、ひとつの芸に生きる人たちの心もまた、それとは無縁の人たちに容易に理解できるものではない。長唄という日本の伝統芸能――人々の心を魅了し、あるいはその心を狂わせ、人生を台無しにしてしまう芸術の世界を生きる、恐ろしくも美しい人間模様を、ミステリという形で表現することに成功した本書を、ぜひ楽しんでもらいたい。(2015.06.07)

ホームへ