【新潮社】
『一月物語』

平野啓一郎著 

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 昔、といってもそう遠くはない昔、まだ科学が万能であり、人の生活を豊かにすると盲目的に信じられていた頃、科学者のなかには、森羅万象――さまざまな矛盾に満ちたこの世界のありとあらゆる現象を言いあらわすことができる、「宇宙の法則」とでも言うべき理論が存在し、科学こそがその真理に迫ることができると考えている人が少なからず存在した。そういった意味では、科学は「賢者の石」という完き存在の生成を目指していた錬金術の流れをたしかに受けついでいると言うことができよう。いつの時代も、人は唯一絶対なるもの、どれだけ歳月を経てもけっして変わることのないものに対して底知れぬ魅力を覚え、その存在に身をゆだねたいという欲望を抱いている。それは、どれだけ世の中が変化することを望んでいたとしても――たとえ神々が死に絶え、科学の権威が失墜し、不変だと信じ込まされていた価値観が次々と崩れていき、およそこの世に信じるべきものなど何ひとつないと絶望したとしても、けっして変わることのない、人々の願いであるのだ。

 本書『一月物語』に登場する井原真拆は、明治という時代に生きる詩人のひとりである。以前からよく気の趣くままに旅をすることの多かった真折だったが、さまざまな偶然が、まるで彼を導くかのように、今回彼をして熊野の本宮へと向かわしめたとき、すでに彼の運命は、何か大きな流れのなかに呑み込まれてしまっていたのかもしれない。
 往仙岳の山中で道に迷い、蛇に噛まれて気を失った真拆が次に目を覚ましたとき、そこは、円祐という名の僧侶が結んだ、山奥の庵の中だった。

「マヨヒガ」という言葉をご存知だろうか。柳田国男の『遠野物語』のなかにも出てくる、山の中の不思議な家のことで、そこでは年じゅう美しい花々が咲いており、多くの家畜が飼われているという、日本人が思い描いたユートピアのひとつの形である。真拆が迷い込んだ円祐の庵は、奇しくも「マヨヒガ」を思わせる不思議な空間だった。現実の時間の流れから断絶されてしまったかのようなその奇妙な空間――草木や花々が異常なまでの成長の早さを見せる山奥の庵で、真拆はしばしば妙に生々しい幻覚や幻聴を体験する。そして夜毎、夢のなかに現れるようになった美しい女性――夢と現との境がだんだんと曖昧になっていくのを自覚しながらも、真拆はしだいに夢の中の女性に恋い焦がれていく自分の心に気づく。そして、真拆のその願いに呼応するかのように、女性の存在もまた、夢から現実の世界へと具現化されていったのだろうか、ある日の夜、ついに真拆は夢の中とそっくりそのままの光景をまのあたりにすることになる。

 はたして、真拆がその肉眼でもってとらえた高子という女性は、ほんとうに彼の夢のなかに出てきた女性と同一人物だったのか、いや、そもそもこの物語のどこまでが現実でどこまでが夢なのか――だが、重要なのは夢と現の境目をはっきりさせることではないはずだ。

 絶対的なもの、一なる存在との邂逅、そしてそれがもたらす永遠――前作『日蝕』を読んだときも感じたことだが、著者は常に現実を越えたところにある絶対的なものを追い求め、それを何とかして表現したいという衝動に突き動かされているようだ。そして『日蝕』では錬金術によって生成される「賢者の石」の中に永遠を見出そうとしたのに対して、本書では時の流れという概念そのものを排除したときに生じる一瞬――けっして連続することのない、しかしその瞬間ごとに新たな世界が形成されていく一瞬のなかに無限を見出そうとしている。夢と現実のはざまをたゆたっているかのような円祐の庵は、時間の流れそのものを無力化するという意味で、まさに永遠にもっとも近いところにあったのかもしれない。

 ……真拆は、今、この地の景色に秘められた、云いしれぬ強い力を遍身に感じつつ、そうした瞬間を羨んでいる。予告される未来を持たない一個の絶対の瞬間。独り肉体によってのみ、行為によってのみ、導かれるその瞬間。その瞬間にこそ、否、その瞬間に於てのみ、自分は真に自然と一つたり得るのではあるまいかと私かな予感を抱きながら。

 鈴木清剛の『ロックンロールミシン』や鹿島田真希の『二匹』など、既存の価値観はおろか、自分自身が思ったり感じたりすることすら簡単に変化していく、たいして意味のないことなのだ、という半ば諦念にも似た雰囲気に包まれた小説が多いなか、絶対などという、もはや時代遅れとも言えるテーマをあくまで掘り下げていこうとする著者は、他のJ文学の書き手とはやはり一線を画した存在であると言わなければなるまい。情感に満ちた独特の文章力で、夢幻の世界を見事に表現することに成功した本書で真拆は、そして著者は何を見出したのか、ぜひ確かめてもらいたい。(1999.11.02)

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