【新潮社】
『私が語りはじめた彼は』

三浦しをん著 



 たとえば、私の両親はたしかに私を愛してくれてはいる。だが、それは私が「両親の息子」という、変えることのできない関係で結びついているからこその愛であって、けっして私が他ならぬ「私」だからという理由ではない。それは、たしかにひねくれた考えであるかもしれないが、こうした欲求不満があるからこそ、人はあらゆる肩書きや関係性といったものからも解き放たれた、他ならぬ自分自身を愛してくれる人を求めずにはいられない。

 この世界のどこかに、自分のことだけを愛し、自分のことだけを待ってくれている異性がいるのではないか、という想い――それは、自分が他の誰でもない、まぎれもない自分自身であることの証を探し求める人たちにとってはこのうえなく甘美な幻想だ。だが、そんな彼らの探索の旅は、間違いなく失敗に終わる。よほど特異な才能や運にめぐまれているのであればともかく、大部分の人たちにとって、自身の存在は容易に代替可能なものでしかない。自分の代わりはいくらでもいるし、また自分がこの世からいなくなったとしても、かならず何らかの形でこの世はうまく機能していく。私たち個人の存在など、本当にちっぽけな、とるに足らないものであり、私たちは遅かれ早かれその事実に気づくことになる。

 それは、はたして人生における敗北なのだろうか。いや、そもそも人は何をもって自身の人生を敗北したと認めるのだろうか。自分と他人とをくらべて、どちらが上でどちらが下であるかを判断することほど意味のないことはない。しかし、それでもなお私たちはその意味のない比較を行ない、そこに不均一を見出して自身の欲望を掻きたてずにはいられない。本書『私が語りはじめた彼は』という作品に書かれているのは、あるひとりの男の自由奔放な愛の形と、その愛に振り回されることになる関係者たちのあいだで交換されていく温度差、とでもいうべきものである。

「村川の魅力は、ある種の女にはたまらないものです。どこを掴まれたのかは自分でももうわからない。けれど、彼によってふいにもたらされた痛みと驚きだけは、いつまでも新鮮に残る。外見や性格とはかかわりのない、そんな種類の魅力です」

 大学で古代王朝の歴史を研究する教授であり、またカルチャースクールの講師なども精力的に努める村川融――六つの章によって成り立っている本書において、それぞれ語り手は変わっても常にその中心にいるのは、間違いなく彼である。だが、にもかかわらず村川融という人物について、直接その内面に切り込んでいくような視点は、本書のなかでは一度として存在しない。書かれるのはあくまで彼の周囲にいて、しかも彼によって少なからずその自尊心を傷つけられた人たちである。そしてそんな人たちの、まるで腫れ物に触れるかのような緊迫した言動を通して、読者は村川融が行なってきた数々の不貞の内容へと迫っていく。

 たとえば、本書に登場する三崎は村川の助手を努めている青年であるが、彼は他ならぬ村川に送られてきた脅迫状――村川とその教え子との不純な男女関係を告発する便箋によって、自分が今付き合っている女性と村川との関係に深い疑いの目を向けずにはいられなくなった人物でもある。三崎はこの告発の内容が本当なのかどうか、そして本当のことであれば、誰がこの脅迫状を書いたのか、その真相をたしかめずにはいられない。そのために彼は村川の妻のもとを訪れることさえするのだが、ここで重要なのは、その脅迫状を書いたのが誰で、その目的が何なのか、というミステリー的な展開ではない、という点だ。

 自分が愛していると思っていた女性が、自分の師にあたる人物と男女の関係をもっていた。しかも自分は、その事実に気づくことさえなく、間抜けな面をさらしてふたりと会っていた。それは、三崎にしてみればこの以上ない屈辱であり、また大いに自尊心を傷つけられる事実でもあるのは間違いないが、問題なのは、けっきょくのところそのことをどれだけ調査したところで――極端な言い方をするなら、その告発が事実であろうとなかろうと、傷つけられた自尊心を回復することにはならない、ということである。もし本当であれば、自分の男としての馬鹿さかげんが露呈されるだけであるし、仮に嘘であったとしても、もはや以前のような無邪気さで恋人と付き合いつづけることは難しい。

 人の心はけっして不変ではなく、年月を経ることで否応なく変わっていってしまう。そしてそのことによって、人々の関係性もまた変化を余儀なくされる。それは、人間が欲望を原動力にして生きる生き物であるがゆえの必然でもあるのだが、もし本書が、たとえば「真実の愛」とかいったテーマで書かれたのであれば、たとえば渡辺淳一の『愛の流刑地』のような内容であってもおかしくはない。だが、じっさいには村川や、彼と再婚するために戦い、それをはたした後も彼の愛を繋ぎとめておくために戦いつづけていった太田春美が語り手となり、その心情を物語るという展開にはならない。おそらく、著者は「愛」という言葉や、その言葉が指し示しているものについて、得体の知れない何かを感じとっているのではないか、という気がする。

 誰もが良いものだと断言し、男女が愛で結ばれることを祝福するが、その目に見えない「愛」が、それほどまでに重要なものなのか、という疑問――もし、愛が至上のものであるとするなら、間違いなく愛を求めて邁進した村川の行為は賞賛されてしかるべきものだろう。だが、本書に書かれているのは、その愛に振り回され、不変だと無邪気に信じていたものに裏切られた人々の、ぽっかりとその胸に空いてしまった空虚であり、その空虚と向き合うことの困難さである。だが、その空虚は他の誰でもない、まぎれもない自分自身のものでもある。

 彼は、変わってしまうことの中に、さびしさや繊細な美しさがあることを知らない。気づこうとせずに、口当たりのよい果実ばかりを求める。それを食べれば永遠の生命を得られると信じた、古代の皇帝のように。

 人々が欲望をいだくのは、そこに不均一があるからだ。そしてその不均一が、必然として均一へ向けての流れを発生させる。世界は不変ではなく、ダイナミックに変化している。季節がめぐっていくように、人の心にもサイクルのようなものがあるとすれば、それこそが私たちがひとつの生物として生きている証にもなる。欲望のない世界はたしかに美しい。しかし、その美しさは死に向かっていく美しさでもある。私たちが生きているかぎり、向き合わなければならない醜い自我――本書には、そんな醜く浅ましい自己の姿に対する、このうえない追憶を感じさせるものがたしかにある。(2007.03.28)

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