【新潮社】
『山本五十六』

阿川弘之著 



 実際上はどうであれ、憲法によって軍隊を放棄したことになっている日本において、「日本軍」という言葉自体がすでに死語であるし、語るとすれば常に頭に「旧」という言葉をつけなければならないほど遠いもの、という意識が私にはある。本書『山本五十六』は、旧日本海軍の軍人であった山本五十六のことを書いたノンフィクションであるが、本書を読むかぎりにおいて、私が想像していたかつての軍人のイメージとはずいぶん異なった印象を、この山本五十六という人物からは得ることになった。良くも悪くも、彼は軍人らしくない軍人だった、という印象である。

 ここで私のイメージする「軍人らしさ」とはどういうものなのか、ということを語る必要があるのだが、それははっきり言ってしまえば「竹槍」に象徴されるものである。みずほらしさ、向こう見ず、やたら精神論ばかりを振り回し、無茶なことをつづけて疲弊していく、けっして頭のいいとは言えない軍人像――そうした軍人のイメージは、おもに戦後に繰り返しテレビなどで放送されてきた太平洋戦争の映像やドラマの影響、とくに、戦争末期の敗戦濃厚な時期における、装備はおろか食べるものすらないままに、南国のジャングルを彷徨う兵士たちの姿と、そうした現実に目をそむけ、なお戦争を続けるという上層部の軍人という、ある意味で戦争の悲惨さと愚かさを訴えるメディアの影響が大きいのだが、そうやってかつてあったはずの軍人の姿が忘れられていくというのは、あるいは山本五十六という人物にかぎって言えば、むしろ望むところだったのではないか、という気がする。

 けっして謙虚な人物だった、というわけではない。質実剛健であるいっぽうで、ふざけるときにはいくらでもふざけるし、こと博打にかんしては本書のなかで何度も取り上げられるほど好きで、トランプやマージャン、将棋はもちろん、戦艦が沈むかどうかといったことまで、あらゆることを博打の対象にして遊んでいたというエピソードがある。逆立ちが得意で、船の舳先などの危ない場所で好んで逆立ちをしてみせたりする、お菓子を上に放り投げて、口で受け止めるといった子どもっぽいところがあった、という話もあって、そういうところから判断するかぎり、本書にはまさにひとりの人間としての山本五十六を浮かび上がらせようとする意図があった。

「意志の人は徹頭徹尾自らを信ずる。時には神すらも信ぜぬ。だから時々過ちもする。リンカーンにも、そんなところはたくさんある。しかしそれは、彼を傷つけるものではない。人は神ではない。人間らしい誤をするところに、人間味がある。――(中略)――これがあるから人の人らしい誤を許し、同情し助け合う事が出来るのだ」

 文庫本に納められたの「作品後記」によれば、山本五十六の神格化、英雄化というのがけっこうあったようで、そうした側面をできるだけ省き、生の山本五十六を描きたいという著者自身の意図があったことがうかがえる。それゆえに、本書冒頭は、彼が大佐だった頃の記念写真の紹介からはじまり、小柄で鬚もなく、もっとも軍人らしくないその風貌を読者の前に描いてみせている。そして、そうした山本五十六像は、彼自身のことを語るというよりは、むしろ彼の周囲に当時いた人たちの証言をもとに、多面的な視点をもちいてその人物像を組み立てた結果として、本書のなかにあるのだ。そこに膨大な資料と調査の過程があったことは、本書を読んでいけばおのずとうかがうことのできることであり、そういう意味で、本書はもっとも真実に近い山本五十六像を伝えていると言えよう。

 真珠湾攻撃を企画した人物であり、誰よりも早くから航空機の有用性を訴え、常に国際感覚を視野に入れていた山本五十六が、軍人として有能であったことは間違いないところであるが、それ以上に驚きなのは、彼が日独伊の三国軍事同盟に終始反対の立場をとり、またアメリカとの戦争についても常にそれを回避する方向で動いていた、という事実だ。彼は軍人で、そうである以上、戦うとなればそれに従うのが軍人としての役目であることを承知していたが、同時に内にではなく、外に目を向けることを知り、それなりに高い地位につきながら、冷静な判断力を保ち続けた人物として、本書は彼をとらえている。そして、この点にこそ私のそれまで考えていた旧日本軍の軍人像との乖離がある。

 今の日本に軍隊はなく、それゆえに軍人であるということ、軍人がどのような意思をもって軍人たりえるのかは想像するほかにないが、山本五十六は軍人としての気質をもってはいたが、軍人として成り上がりたい、出世して名声を得たいという考えからは程遠かったように思える。軍人である以上、敵と戦って勝つというのが本分であり名誉であるはずなのだが、彼の周囲にいた人たちは、彼がこの戦争を止めることができる人物だ、という認識をもっていたことが本書から見えてくるのだ。そして、そこからわかってくるのは、たとえば海軍と陸軍の対立とか、こと陸軍が悪者のように書かれているとかいったことではなく、当時の気運として、戦争という流れは止めがたい激流となりつつあった、ということであり、誰がその責任者なのか、といった問題ではすでになくなっている、ということである。

 それゆえに、本書を読んで見えてくるのは、できれば英米との戦争は回避したい、少なくともドイツやイタリアの情勢が見えてくるまでは様子を見たい、そしてもし戦争が避けられないのであれば、緒戦で優位に立ったところで講和に持ち込みたい、と考えている山本五十六の姿であり、それは、現代の私たちからすればきわめて真っ当な判断だとわかるものであるのだが、当時の気運としてはそれが「弱腰」であり、軍人にあるまじき考えとして受け止められていた、という事実もまた見えてくることになる。

 軍人としての山本五十六ではなく、人間としての山本五十六――それは、敗戦によって軍隊というものを永遠に放棄することになった今という時代だからこそ書くことのできたものでもある。そういう意味で、まぎれもない人間としての山本五十六を書いた本書は、彼の死を軍人としての死ではなく、人間としての死で締めくくりたいという著者の鎮魂の一作と言えるのかもしれない。(2008.10.03)

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