【新潮社】
『灰色の輝ける贈り物』

アリステア・マクラウド著/中野恵津子訳 



 俺は「出ていく」とは物理的なことにすぎないと思っていた。それは単に、場所を移ること、馬鹿みたいにぺらぺらと口をついて出た「ヴァンクーヴァー」といった場所の名前、あるいは、海を渡ったり州境を越えたりすることだと思っていた。そして、おまえは「自由だ」と父に言われたとき、愚かにもほんとうにそうだと思いこんだ。なんのためらいもなく。(『広大な闇』より)

 自分がどの時代のどこの国の、誰の家族として生まれてくるのか、私たちは選ぶことはできない。そういう意味で、私たちは生まれながらに不自由で、けっして平等というわけではない。だが、この世に生まれてきた以上、その血縁からは生涯無関係でいられることはできないし、けっきょくのところそうしたしがらみのすべてを受け入れて生きていくほかにない。最近になって、そんな運命的なことをふと思うようになっていたが、本書『灰色の輝ける贈り物』は、そうした思いをさらに深く掘り下げていくことを読者に課す作品でもある。

 本書に収められた、表題作をふくむ八つの短編は、いずれもカナダにあるケープ・ブレトン島を舞台として展開していく。かつてスコットランド高地から流れてきた移民たちを先祖とする島の住人たちは、その過酷な自然と常に対峙するかのように、あるいは漁師として、あるいは炭坑夫としての日々を淡々と生きつづけてきた。逆に言えば、とくに目玉となるような産業をもたない貧しい小さな島のなかで生きていくためには、そうした労働者としての道しか残されていなかった、ということでもあるのだが、学校教育の発展によって、その方面への才能を見出した若者たちは、より洗練された都会での生活を求めるため、あるいは体を資本とする、命の危険と隣り合わせの仕事から逃れるために、島を出て大陸へと働き口を求めていく。

 短編の語り手となるのは、あるいはまだ年端もいかない子どものときもあれば、体のほうは立派に成長した学生のときも、あるいはすでに自身の家庭をもっていても不思議ではない大人の青年の場合もあって、けっして一定しているわけではないが、いずれの作品においても共通しているのは、生きるというただそれだけのために、いろいろなものを切り捨てていかなければならない人々の心の葛藤や悲しみが描かれている、という点である。それは、たとえば『夏の終わり』における立坑夫のメンバーのように、世界中を飛び回って地面に穴を穿つという危険な仕事に就いているがゆえに、家族との団欒やふれあいの機会をほとんど持つことができない、子どもたちに親として何かを伝えることができないまま、死を迎えることになるかもしれないという心理であったり、あるいは『秋に』に出てくる家族が手放すことになる老いた馬のように、具体的なものであったりするのだが、そうしたさまざまなものを切り捨てて、そのことについてさまざまな思いをめぐらせながらも、表面上は粛々と日々の生活――けっして楽とは言えない、自然を相手に生きていく様子を書き綴っていく。

 なかでももっとも顕著なのは、ケープ・ブレトン島での生活そのものを捨てる、という選択肢だ。それは、将来にまだ大きな可能性をもつ若者たちとすれば、島のなかにいてはけっしてつかめないだろうものを手にするために必要なことなのだが、同時にそれは、これまで自分を育んできた家族や、厳しくも美しい島の自然といった、慣れ親しんできたものすべてを切り捨てていくことを意味する。両親はいずれも漁師や炭坑夫といった労働者であり、教養はおろか文字すら書けないという者たちであるが、島から出て、あるいは弁護士となり、あるいは教師となって、自分たちとはまったく異なる世界で生きていく決意をする息子や娘に一抹の寂しさを感じながらも、けっして頑なに反対することもせず、自分たちを待つ日々の生活へと戻っていく。

 けっして激しい感情の吐露があるわけではない。それどころか、『船』における父親の死をはじめ、多くの身内の死さえも、まるで季節の移り変わりを映すように淡々と書かれていく。そうした感情を極力抑えた筆致は、それだけその世界を生きる人々が、ケープ・ブレトン島の自然とともに生きていること、そこで起こるさまざまなことについて、その喜びも悲しみも受け入れて生きていることをこのうえなく物語るものであり、地味でありきたりなものでありながら、その自然が時折見せる美しさと同じような渋さをともなうものでもある。自分たちのもとにとどまってほしいという両親や祖父母の願いと、そうした家族のしがらみから逃れ、島を出ていこうとする若者たち、世代間にわだかまる考え方の違い、そこから起こる衝突と、それでもなおつながっているという愛情――そんな人々の姿を描いた著者の文章は、ときにハッとさせられるほどの美しさを放つ。

 私は本書に登場する年老いた労働者がときに見せる粗野で荒々しい側面、その大きな声や口汚い言葉がけっして好きではない。だが、その頑なさや無理解が、そのまま彼らの生きるための知恵のひとつとなっている点を、けっして無視することはできない。そして本書のなかで描かれる、そんな親たちの世代と若者たちの世代の違いは、私たち日本人のかつての労働者と、その子どもたちとの間にある違いと驚くほどよく似ている。私の父親は会社に勤めるサラリーマンではあったが、業務内容からすれば、工場労働者とそれほど大きな違いがあったわけではない。そして母親も、ホテルや旅館で働くことを厭わなかった。私というひとつの個性は、そうした両親の労働によって形成されていった。そのまぎれもない事実を、本書は思い出させてくれる。それは、どれだけ否定してもけっして否定することのできない、本人は切り捨てたと思っていても、ふとした瞬間にそのつながりを意識せずにはいられない、ひとつの重い事実でもある。

 著者自身の生まれ故郷でもあるケープ・ブレトン島は、そのまま著者の過去や今とつながるものでもある。そして著者が描くケープ・ブレトン島の人々の暮らしやそこに渦巻くさまざまな思いは、言ってみれば著者の原点回帰でもある。現代から見たとき、それはいかにも古臭い、時代遅れなものでしかないのかもしれないが、その原点を無視して築かれていくものに、いったいどれほどの価値があるというのだろう。他ならぬ自分の基礎をはぐくんだ過去と向かい合い、その事実を静かに受け入れることで完成した、その小さな世界のありように、ぜひ目を向けてみてほしい。(2007.10.05)

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