【集英社】
『石の中の蜘蛛』

浅暮三文著 
第56回日本推理作家協会賞受賞作 



 あなたはふだん、周囲から入り込んでくる音に対して敏感なほうだろうか。一時期メディアでも話題になった「絶対音感」とは、音を漠然としたノイズとしてではなく、周波数やピッチといった、より厳密な情報としてとらえることのできる感覚のことであり、それゆえに「絶対音感」の持ち主は、人より音の快不快、音程の狂いとかいったものにより敏感に反応してしまう、という話を聞いたことがある。

 それでなくとも、耳という器官は目とは異なり、意識的に「閉じる」ことができない。視覚はまぶたさえ閉じてしまえば情報を遮断することができるが、聴覚というのは、たとえ眠っているときでも音を拾いつづけている。それゆえに催眠学習などというものも成立するわけであるが、たしかに私なども、集中して本を読みたいと思ったときに、ふだんならそれほど気にならない周囲の雑音が急に耳についてしまい、かえって集中できなかったりすることがよくある。

 もし、目と同じように耳も「閉じる」ことができれば、それだけ余計なノイズを遮ることができるわけで、それはそれで便利なことではあるが、その代わりに私たちの脳は、ふだんから耳に届いてくるさまざまな音の大半を、自分とは無関係なノイズとしてとくに意識しないまま切り捨てていくことで似たようなことをしていると言える。もし、この脳の機能が壊れてしまい、あらゆる音が精密な情報として処理しはじめてしまったら、それこそ驚異的な記憶力ゆえに日常生活そのものにさえ支障をきたしてしまうサヴァン症候群のような状態に陥ってしまうことになるだろう。

 世界はあらゆる音で構成されていたのだと立花は実感した。今まで見えるものや触れられるものだけで作られていると思っていた世界は今はここにはない。世界は実は音によって築き上げられていたのだと立花には痛いほど理解できた。

 本書『石の中の蜘蛛』は、著者である浅暮三文の「感覚シリーズ」と呼ばれている作品のひとつで、本書の場合は「聴覚」がメインテーマとなっている。主人公の立花誠一は、楽器のリペアを生業としている男であるが、どこかの会社に属しているわけではなく、いわばフリーの立場で仕事を引き受けている職人である。仕事上、どうしても自分の部屋で音を出さざるを得ない立花は、都内の防音設備付きのミニマンションを探していたが、とある物件に決めた矢先に、何者かの車にはねられてしまう。そして病院の一室で目を醒ました立花は、自分の聴覚が異常をきたしていることに気づく。

 聴覚異常と書いたが、それはたとえば、音が聞こえなくなるといったマイナスの障害ではなく、むしろ異常なまでに聴覚が研ぎ澄まされ、他の人にはほとんど聞き取れないような、ほんのかすかな物音にさえ、耳が過敏に反応してしまうというものである。音がもつわずかな差異を聞き分け、その音を出している対象の距離やその状態はもちろん、目には見えない人間の心理や過去の痕跡といったものまで、まるで手に取るように感じ取ることができる――以前このサイトでも紹介したパトリック・ジュースキントの『香水』では、臭いによって築き上げられる世界が展開されていたが、本書の大きな特長のひとつが、その聴覚異常によって極度に敏感になった耳がとらえる、まさに音によって築き上げられる独自の世界の姿にあることは間違いない。

 視覚ではなく、聴覚が主体となった世界が、はたしてどのように感じられるのか。三人称とはいえ、ほぼ立花の主観によって描かれる徹底した音の世界は、それだけでも興味深いものがあるが、なにより圧倒的なのは、立花が借りた部屋に以前住んでおり、書き置きと、風を受けて鳴く奇妙な石を残して失踪した女性の情報を、その部屋にわずかに残された「クセ」を音で聞き分けることで――たとえば、床のほんのわずかな歪みをスプーンで叩いたときの反響によって聞き分け、その歩幅を調べたりといった方法で、女の身長や体重、性格その他のさまざまな情報を引き出していく過程だ。優秀な警察もけっして手が届かない音の情報から、失踪した女に近づこうとする立花は、徐々に自分がこうむった交通事故がけっして偶然のものではなく、女の失踪に絡む大きな事件の一端であることに確信をもつようになる。

 はたして、以前この部屋を借りていた女は、なぜ失踪しなければならなかったのか。立花を見張るかのように、マンションの外でしばしば聞こえてくる白いセダンの車の目的は何なのか。まるで、宮部みゆきの『火車』を思わせるような展開であるが、『火車』と決定的に異なるのは、女の行方を追う立花が聴覚異常であり、それゆえに何にも増して音がもたらす情報をすべての基準としてしまっている点だ。たしかに、立花の過敏になった聴覚は、かつて住んでいた女についていろいろな情報をもたらしてくれた。だが、その情報が他者と比較しようのない、きわめて特殊な情報であるがゆえに、立花は知らず知らずのうちに、その女に対して妄執めいた想いをいだくようになっていく。それでなくとも、かつて立花はある事件をきっかけに神経症を患ったことがあり、人との付き合いがあまり得意ではない、孤独な環境を好むところがある。聴覚異常という音をメインとした物語であり、周囲にさまざまな音が溢れていながら、本書全体にただよう雰囲気はきわめて物寂しく、どこか独りよがりな主人公の性格を反映しているようにさえ思われる。

 蜘蛛だ。あの蜘蛛が出口を探している。やはり出られないのだろうか。石の外へ。一度、ここに閉じ込められると逃げ場などないのか。暗闇と孤独と怯え。それだけが意識できるもので、それ以外は得られないものなのか。

 本書のタイトルである『石の中の蜘蛛』とは、立花が新しく契約した部屋で見つけた、鳴く石の立てる音を表現したものだ。そしてそれは、どこにも行き場のない立花の心情をうまく言い表してもいる。聴覚異常によって得られた、自分と同じ境遇にいるはずの、失踪した女――聴覚によって現実世界が塗り替えられてしまうという、奇妙な「音」の世界をぜひとも味わってもらいたい。(2004.12.17)

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