【実業之日本社】
『いっぺんさん』

朱川湊人著 



 人間にとって死というものは恐怖の対象であるが、それは死が私たちにとっては未知の領域であり、死んだ後どうなるのか、死後の世界や天国地獄といったものが存在するのか、あるいは輪廻転生がありうるのか、誰もたしかな答えを出すことのできない命題だからに他ならない。ようするに死とは、私たちを有無を言わさず「わけのわからない」領域に連れ去っていくものだからこそ、私たちは死を怖れるのだ。

 だが、同じ死でも、たとえば幼い子どもたちにとっての「死」とは、はたしてどのようなものなのだろうか、とふと考えることがある。言うまでもないことであるが、死というのは、他ならぬ自分自身という個がこの世界に生きている、という認識があって、はじめて成立する概念である。自意識の存在しないとされる動物たちに、基本的に生死の概念が存在しないとの同じように、さまざまな点で未成熟な部分を残す子どもにとって、「死」とはたしかに未知の領域ではあるが、それは私たち大人がことさらに怖れるようなものではなく、もっと曖昧で、それゆえにより近しい存在として、すぐそばに寄り添っているものであるのかもしれない。たとえば、子どもたちにとって「死」というのは、ちょっと遠い場所に行くこと――それこそ、隣町にでも行ってくるような感覚だったとしても、何ら不思議なことではない。なぜなら、死の本質について、誰もちゃんとした言葉で語ることはできないのだから。

 以前、同著者の『花まんま』を読んだときも感じたことであるが、朱川湊人の作品には常に人の死が大きく絡んでいながら、そこには恐怖というよりも、むしろ身近なものに対するあたたかさが感じられることが多い。そしてそれは、今回紹介する本書『いっぺんさん』にも引き継がれている。表題作を含む八つの作品を収めた短編集である本書は、いずれも常識や論理といった私たちの世界における秩序では推し量ることのできない、奇怪で――ともすると不気味な出来事を扱っている、という意味ではホラーとしての要素の大きい作品集であるが、そうした出来事が登場人物たちの恐怖をもたらしているかというと、かならずはもそうは言い切れないものがある。

 たとえば表題作である『いっぺんさん』は、一人称の語り手が自身の子どもの頃に体験した不思議な出来事を思い出して語る、という形をとっているが、そこにはかつて祖母の暮らしていた村に伝わる「いっぺんさん」という神さまの話が出てくる。どんな願いでも、一度だけなら叶えてくれるから、「いっぺんさん」――語り手がその奇妙な神さまのことを持ち出したのは、当時彼の友人だったしーちゃんの願い事を叶えてあげたいという思いゆえのことだった。しーちゃんの父親はまともに働こうとせずに、家族にすぐ暴力を振るうようなごく潰しで、それゆえに家庭環境はけっして良好とは言えない状態にあったのだが、そんな状態を、しーちゃんは自分が「早く大人になって、白バイのお巡りさん」になることで、解決できるのではないかと考えていたのだ。だが、小学生にとってはかなりの遠出の末に「いっぺんさん」の祠に辿り着き、きちんと願い事をしてきたしーちゃんは、その後しばらくして病気で命を落としてしまう。

 どんな願い事も、当人が死んでしまったら何の意味もない――それは、いかにも利己的な私たち大人の考えであるが、話自体はけっしてそこで終わるというわけではない。はたして、死んでしまったしーちゃんの願いは、そして語り手の願いはいつ、どのような形で満たされることになるのか、それはじっさいに本書を読んでたしかめてほしいところであるが、そのとき「いっぺんさん」という名前のもうひとつの意味に気がつくと同時に、人の思い、とくに、いろいろな境界線について未成熟な子どもたちの思いの、未成熟であるがゆえの不思議さというものについて、ふと考えさせられることになる。

『小さな不思議』という短編は、「小鳥のおみくじ」を題材にしたもので、そこには死んでしまってなお、覚えこんだ芸をつづけているヤマガラが出てくるのだが、誰もいないのにミニチュアセットの鈴が鳴り、お宮の扉が開くという現象について、芸を仕込んだ中山さんは「もしかしたら、自分が死んだってことに気がついてないのかもしれないな」と語る。それが真実なのかどうか、あるいはヤマゲラがどんな気持ちで芸をしていたのか、本書には何も語られていない。彼らにできるのは、たしかに死と結びついている、それらの怪奇現象について、自分たちなりの推測をめぐらせることだけだ。だが、ここで重要なのは、何が真実なのかということではなく、今を生きている人たちによって、そうした現象の裏にかつて生きていた誰かがいたのだということを結びつけておくことであり、そうしたテーマがあるがゆえに、本書であつかわれる死は、たんなる死ではなく、より私たちにとって近しいものとして認識されることになる。

 そして、そうしたテーマのひとつの完成形としてあるのが、『八十八姫』である。今はもうなくなってしまったある村で、八十八年に一度の周期で選ばれる「八十八姫」――その新しい姫として選ばれた女の子との思い出を語ったこの作品は、最後に姫として選ばれることの真の意味が明かされることになるが、そこにはさまざまな人たちにとっての「死」の意味が入り混じり、死がたんなる死ではなく、特別な何かとして昇華されていく過程が描かれている。

 死を身近なものとすることが、良いことであるとか、正しいことであるとかいった主張は、本書にはないし、むしろ『コドモノクニ』のように、生と死の境界があいまいな子どもゆえに、安易に別の世界――死の世界――に入り込んで、二度と戻ってこられなくなる、といったエピソードも短編として含まれている。そこから見えてくるのは、人の死について、けっして善悪といった人間側の基準を押しつけようとしないという態度であり、そうした混沌としたものすべてをひっくるめて、人の死を表現しようという著者の意思である。私たちにとって、けっして無縁ではないにもかかわらず、できるだけ考えまいとしている死――本書はそうした死の、けっして怖いだけではない、意外な側面を読者に提示してくれる作品集でもある。(2009.08.31)

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