【講談社】
『ルドルフとイッパイアッテナ』

斉藤洋著 

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 麻雀というゲームがある。四人で順番に牌を引いていき、誰よりも早く役をそろえてアガリを競うというものであるが、この麻雀の役にはいくつもの種類があるうえに、その難易度やそろえた絵柄、アガリ方によってつく点数――より詳しく言うなら飜と符の組み合わせが異なってくる。そして麻雀というゲームは、最終的にトップの点数をとることが目的であるがゆえに、自分のそろえる役がどのくらいの点数になるのかが計算できなければ、勝つための戦術を見誤ることになる。

 私は麻雀のルールはある程度わかるし、コンピュータゲームとしての麻雀なら何度かやったこともあるのだが、それゆえに得点計算がおぼつかないところがあり(コンピュータゲームは、当然のことながら得点計算は全自動である)、卓を囲んで生で行なう麻雀をやったことがない。それは、金銭の賭け事と結びつくことの多い麻雀というゲームにおいて、得点計算が不得手というのは致命的な欠点となることがわかっているからだ。もちろん、誰かに得点計算をしてもらうという手もある。だが、その人が意図して本来より低い点数を申告してきたとしても、得点計算の知識のない人には判断のしようがないのだ。

 義務教育があたり前のものとなっている日本という国において、文字の読み書きや四則演算をはじめとする基礎的な知識を有していることの恩恵を実感するのは難しいのかもしれない。だが、もし自分が文字を読むことができなかったり、足し算や引き算の仕方がわからなかったとしたら、それができる人との知識の差がどれほどのものになるのかと考えると、相当の戦慄を覚えざるを得ない。そしてそれは、本書『ルドルフとイッパイアッテナ』において「キョウヨウ」という言葉で何度も繰り返される要素でもある。

「ぼくはルドルフだ。あんたは?」
「おれか。おれのなまえは、いっぱいあってな。」
「えっ、『イッパイアッテナ』っていう名まえなのかい。」

 こんなお間抜けな返事をしてしまうルドルフというのは、まだ若い黒ネコのことだ。魚屋のおじさんに追いかけられたあげく、逃げ込んだトラックによって生まれ故郷から遠く離れた東京に来てしまった彼は、けっきょくは「イッパイアッテナ」と呼ぶことになる大きなトラ縞のネコとともに、野良猫としての生活を強いられることになる。なぜなら、ルドルフは自分の故郷が日本のどの県のなんという名前の街なのか、という知識について皆無であり、それゆえに自分が帰るべき場所について探しようがなくなってしまっているからである。

 なかば放し飼いのような感じではあったが、ルドルフはちゃんとした飼い猫であり、住処や餌という点ではほとんど何の苦労もなく手にすることができる環境にあった。それゆえに、自分が暮らしているのがどこなのかといった知識など、それまでは必要としていなかったところがある。だが、飼い主の庇護から引き離されてしまった今、ルドルフを困った状況に陥れているのは、まさにその知識の無さである。いっぽうのイッパイアッテナは大柄で腕っぷしもあるが、なにより豊富な知識の持ち主であり、その知識が野良猫としての生活を、他の猫と比べて優位なものとしている。なにしろイッパイアッテナは、人間の使う文字を読むことができるし、書くことだってできる。他の猫にはぜったいにわからない情報――たとえば、いつ学校の給食室に来れば、お目当てのクリームシチューを食べることができるのかが、週ごとの献立メニューを読めるイッパイアッテナにだけはわかるのだ。

 本書を読み進めていくと、知識のあることとないことの差、イッパイアッテナが言うところの「教養」のあるなしが、さまざまな面でどれほどの格差をつけるものなのかという点が前面に押し出されているのに気づく。それはおもに、何も知らないルドルフと、人間社会のことに精通しているイッパイアッテナとの比較によって際立つものであるが、同時に、たんに知識が豊富であることをもって「教養」と語っているわけではないことも、少しずつ見えてくる。

 たとえばイッパイアッテナは、人間の使う文字が読める。それは、書かれた文字が何を意味するのかという知識があるからに他ならないが、せっかく文字が読めても、それがじっさいの生活に結びつかなければ、知識があるというだけで終わってしまう。イッパイアッテナは、読んだ文字を情報として咀嚼し、それを実生活のなかでうまく活用して生きている。文字を読むには語学の知識がいる。それが大前提だ。だが、ただ文字が読めるというだけではイッパイアッテナが言うところの「教養」があるということにはならない。集めた知識をどのように、何のために活用するのか、ということの重要性を本書は巧みに物語っているのだ。

 だからこそ、イッパイアッテナの指導によって文字の読み書きができるようになったルドルフが、その知識で他の猫をからかうようなことをすれば、それは「教養のあるねこのやるこっちゃねえ。」と諌めることを忘れない。そしてそれは、イッパイアッテナというキャラクターの根底を成す立ち位置でもある。なぜなら、もしイッパイアッテナが知識を有することのみを大切にするキャラクターであるなら、ルドルフに文字の読み書きを教えることはけっしてしないだろうとわかるからだ。文字が読めるネコが増えれば、それだけ自身の野良猫としての優位性が失われる可能性が出てくる。それはイッパイアッテナにとっては、けっして歓迎すべき事柄ではないはずである。独占しておきたいはずの知識をあえてルドルフに授ける彼にとって、知識とは常に「教養」をともなうものという認識とともにあるものなのだ。

 子どもは学校で勉強する。学年があがればそれだけ勉強する分野も多く、そして覚えなければならないことも増えてくる。私も昔は、世界の歴史や原子記号、二次方程式や微分積分といった知識が将来何の役に立つのかとうんざりしたものだが、今にして思えば、本を読み、こうして書評を書くという行為のなかで、そうした過去に勉強したさまざまな知識が役に立っていることをしばしば実感する。はたしてルドルフは、無事故郷に帰ることができるのか、そしてそのさいに、イッパイアッテナから教わった知識と「教養」が、彼の言動にどのような影響をおよぼすことになるのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2012.03.12)

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