【集英社】
『魚神』

千早茜著 
第21回小説すばる新人賞受賞作 

背景色設定:

 かつて人々に必要とされながら、時間の経過とそれにともなう変化によって、いつしか人々から見捨てられたもの――たとえば廃墟といったものに、独自の魅力を感じる人は少なくない。人が何かをつくるとき、そのつくられたものには必ず何かの用途があるわけだが、同時にそれを使う人がいなくなれば、当然の帰結としてつくられたものはその存在意義を失うことになる。自然から切り離され、むしろ自然の流れに逆らうようにして生み出された人工物は、人々の意図がなければ、たとえその形をたもつことができたとしても、もはや存在しないも同様なのだ。何物にもなりえないもの――しかし、人工物である以上、そこに込められた意図だけは読み取ることができる、そうしたアンバランスさ、不自然さこそが、廃墟をはじめとする見捨てられた人工物のもつ魅力だと言うことができる。

 人工物は、誰かに使われることではじめてその存在価値を見出される。となれば、人々に見捨てられた人工物は、はたして自身の存在意義をどこにゆだねることになるのだろうか。かつてはたしかにもっていた、自身は何かの目的のためにつくられたという記憶、あるいはじっさいに自身を利用していた人々の痕跡は、はたしてどこへ流れていくのだろうか。あるいはそれらは流れていくことはなく、その場にたゆたいながらも次第によどんでいくばかりなのか。今回紹介する本書『魚神』は、様々な公害や人害に汚染され、本土からも見捨てられた島を舞台とするふたりの男女の物語であるが、何より本書を特徴づけているのは、まるで世界から打ち捨てられた人工物のごとく、どこかまがい物めいた――しかし、それゆえにどこか妖しい歪みをたたえた独自の雰囲気である。

 もとより、生きることを望んで生まれた訳もなく、受け入れようと涙を呑んだ訳でもなく、私はただ気がつけばすでに存在しており、同時に全ての状況を呑み込んでしまっていただけのことだった。
 何も考えず、何も望まず、何も感じてはいなかった。それらの方法を知らなかった。

 大きな川の中央にあるとされるその島は、かつて政府によってつくられた一大遊郭という人工物として開発されながらも、今はその存在を否定された場所という要素をもっている。時代ははっきりとしてはおらず、島では江戸時代の日本の遊郭を思わせるような生活様式がまかりとおっているが、「本土」と呼ばれるところには電気といった科学文明が見受けられたりするところがある。重要なのは、その島が通常の世界の時間の流れから取り残されているという要素だ。年じゅう湿り気を帯び、よどんだ水で周囲を囲まれたその島は、場所的にも時間的にも世間から隔絶され、忘れられた場所であり、そこに住む人々は漁か、さもなければ遊女屋街で春を売ることでしか収入を得るすべをもたない。

 島は確かにそこに存在し、そこにはたしかに人々が生きている。にもかかわらず、社会的には存在しないことになっている。そんな存在の不確かさ、曖昧さが混在するがゆえの、どこか儚く幻想的な雰囲気のなか、本書の語り手である白亜もまた、自身の存在意義というものについて、このうえなく希薄なキャラクターという側面をもって登場する。親兄弟といった血縁関係ははなから無視されているし、またかぎりなく虚構に近い島において、意味をなさないものとなっている。彼女を拾った婆は、その整った容姿ゆえに、成長して遊郭に売るための商品という視点でしか白亜をとらえることはない。そんな彼女にとって、自分がたしかに自分であるという支えになるものがあるとすれば、ものごころついたときからずっと寄り添うように存在したスケキヨに他ならない。逆にいえば、彼女にとっての確かなものは、彼のほかに誰もいないし、何もなかったということでもある。

 白亜とスケキヨとをつなぐもの、その関係について、ひとことで語るのは難しい。一応、姉弟の関係ということになっているが、ものごころついたときに一緒にいた、というだけで、じつのところ彼らに血縁関係があるのがどうか、たしかめる術はない。そして、ふたりをたしかにつなぐ何かがあるとして、それがなんらかの形をとってずっと保障されるわけでもない。既存の言葉で名づけられてしまうと、とたんにその本質を失ってしまうような、このうえなく危ういつながりを表現するためにこそ、この物語は生み出されたと言っていい。

 たとえば、恋愛や結婚といった関係のなかにどうしてもまぎれこんでしまう、人が人であるがゆえの打算や思惑――そうした世俗的なもの、社会的なものに縛られることのない、純粋な愛による結びつきを表現する手段のひとつとして、同性愛などのアブノーマルな感情をとりあげることがある。「結婚」という誓約を交わすことができないゆえに、お互いが結びつくためにはより深い愛情と覚悟を必要とするそれらの関係は、たしかにより精神的で、純粋な感情だというとらえかたはできる。だが、それでもなお彼らは、それがアブノーマルなものであること、世間では正当と認められないものであることを知っている。そしてそのアブノーマル性は、それゆえに容易に「特別なもの」として認識されてしまうものでもある。

 白亜とスケキヨの場合、彼らの生きる島自体が、すでに既存の社会から切り離された場所であり、それゆえにふたりは、何が普通かどうかといった判断する基準をもつことができないまま成長する。むろん、島には島の社会があり、上下関係や組織的なつながりもあったりするのだが、そもそも遊郭施設として生まれた島において、何が普通かどうかといった判断基準など、もとから育ちようのない環境だという厳然たる事実がある。

 繰り返しになるが、本書はそんなごく限られた閉鎖世界における男女の成長の物語である。だが、そこに表現される「成長」は、私たちがふだん意識しているような成長とは異なる形をもっている。それは、外からの知識を蓄えていくことで、世のなかのあらゆるものを分類し、境界を引くということを知ることであり、それはそれまでかろうじて保たれていたふたりの関係を壊してしまうものでもある。

 形ある感情をほとんど持たなかった私達は、互いの名を呼び合うことで自分自身が存在することを見出した。――(中略)――呪文のように。それは私達にとって全ての意味と可能性のつまった単語だった。そして、私達にしか解らない言葉だった。

 島の人たちは夢をみない。それは、島に住む獏が人々の夢を食らうからだと信じられているからだ。スケキヨは、その聡明さゆえに獏の正体を知るにいたった。知識を得ることで、彼は独自のものの見方を獲得していく。それは間違いなく、人としての成長に属するものである。だが、忘れられた人工物の象徴とも言える島において、その成長もまたどこか歪んだものとして彼を突き動かしていく。かつて、同じ白亜という名の娼婦の伝承を踏襲するかのように展開していく本書のなかで、はたしてふたりがどのような結末を迎えることになるのか、その独自の耽美な世界観ともども、ぜひともたしかめてもらいたい。(2009.04.26)

ホームへ