【文藝春秋】
『犬吉』

諸田玲子著 



 たとえば、歌手は歌を唄うことが本分であるが、もし歌を唄う場を奪われつづけたとしたら、歌手としては命を断たれたも同然となってしまう。もちろん、それが直接その人の命をおびやかすことにつながるわけではないが、歌手になるからには少なからず歌を唄うこと、歌手になることへの思い入れというものがあるはずで、歌を唄うことが、その人にとっての生きがいとして位置づけられていたとしてもおかしくはない。

 私たち人間にとって、生きるというのはただたんに生命活動を維持しつづけるということを意味するわけではない。もしそれだけがすべてであるとしたら、私たちは他の動物となんら変わりないということになってしまうし、それが事実であるなら、なぜ私たちは自我をもち、他人のことを自分のことのように想像する力を備えているのか、その理由がわからなくなってしまう。何気ない風景を美しいと感じ、生まれたばかりの動物をかわいいと感じる心――あるものを、ありのままにとらえるのではなく、そこに特殊な感情を喚起させるのは人間独自のものであるが、自然界を生き抜くにはむしろ邪魔ともいえるこれらの感情は、しかしだからこそ人間らしさに溢れているともいえる。

 もしそれがなくなってしまったら、もはや人間として生きているとはいえない、というギリギリのラインというものがある。そのギリギリのラインを常に意識していなければならない生き方というのは、少なからず不幸なことではあるが、そこにあるのは、本来ならこうあるべきという基準から、自分がかけ離れてしまっているという意識である。本書『犬吉』という作品は、江戸時代を舞台とした時代小説であるが、徳川幕府五代将軍綱吉が発した「生類憐みの令」を物語の骨子としている点が、まず目を惹く特長のひとつである。

 この「生類憐みの令」というのは、生き物全般、とくに犬の保護を奨励する法令で、そのお題目だけをとらえるならけっして悪いことではないのだが、この令の特異な点は、その取り締まりや罰則がことのほか厳しかったということ。犬を粗末にしたという理由でお家断絶や切腹を命じられることが、冗談でもなんでもなく、ごく日常的なこととして起こっていたというのだから、まさに奇妙極まりない悪法ということになるのだが、本書の舞台となる武蔵野の「御囲」は、そういう意味で「生類憐みの令」の象徴というべき場所だといえる。

 本書の一人称の語り手であるお吉、人からはもっぱら「犬吉」と呼ばれている女性は、この「御囲」の世話係を生業としている者である。「御囲」とは、言ってみれば大きな犬小屋であり、江戸じゅうから集められた病犬、狂犬、野良犬が飼われているところで、最盛期には十万匹もの犬がいたとされる。そこには当然のことながら、犬吉をはじめとする犬の世話をする者がおり、それを監視する「お犬同心」や「お犬目付」といった役人がいて、彼らの衣食住をまかなう人たちが暮らしている。そして人が集まれば、そこに社会が形成されることになる。

 物語は、こうした奇妙な成り立ちをもつ閉じた社会の、まさにその特異さゆえに引き起こされたある事件の成り行きを描くという形で展開していくことになるのだが、語り手の犬吉はけっして事件を解決する力をもつ人物としてではなく、あくまで事件に巻き込まれる無力な女性という立場から、基本的に逸脱することはない。だが、にもかかわらず犬吉が語り手としての位置にいるのは、彼女のその名前が指し示すとおり、視点が人間寄りというよりは、むしろ犬寄りのものであることが大きい。そしてこの視点は、「御囲」という場の本質をとらえるものであると同時に、今回起こった事件の本質にも直結するものである。そういう意味で、彼女の存在は非常に重要だ。

 お犬駕籠は竹で編んだ駕籠に板屋根をつけたもので――(中略)――先導のお侍さまをはじめ、ぞろぞろと十人前後が付き従う光景は、たしかに仰々しかった。だけどお犬さまだって好きで担がれてるわけじゃなし、お旗本と一緒にされちゃ迷惑ってもんだよ。

「御囲」で暮らす人々の生活は、けっして楽なものではない。集まってくるのはいかにも粗暴な者たち、脛に傷持つような者ばかりだし、犬吉も世話係だけでは足りず、そんな男たちを相手に売春といった汚れ仕事を請け負ったりしている身である。そして、そうした人足たちの食べ物が雑穀の粥なのに対して、犬たちには毎日白米と味噌が与えられているという事実がある。人間の側からすれば、自分たちよりも良いものを食べられる犬たちに、えもいわれぬ屈辱や怒りを覚えてしかるべきところであり、私たち読者にもじゅうぶん理解できる感情であるのだが、こと犬吉については、この巨大な犬小屋で暮らす犬たちにまったく別の感情をいだいていることが、本書を読んでいくとわかってくる。それは、犬たちにとっての「御囲」が彼らを閉じ込めるための檻に他ならず、「お犬さま」として祭り上げられたがゆえに、かえって不自由をかこつことになったことへの悲しみである。

 犬と人間との関係というのは、一説によれば縄文時代にまで遡るとされる。その頃から犬たちは人間の良きパートナーという位置づけにあり、それこそが両者の本来あるべき姿ということでもある。だが、「生類憐みの令」がその古くからの関係を壊す結果となった。犬の地位が不当に上げられたがゆえに、良きパートナーであったはずの人間たちもまた、犬たちとの接し方を変えざるを得なくなったのだ。犬が「お犬さま」となったせいで、ごく普通に愛玩することさえ恐れ多いことになってしまった人間だけでなく、犬たちもまた不幸になっていくというのは、「生類憐みの令」のそもそもの目的からすれば、皮肉以外の何ものでもない。

 犬たちにとっての「御囲」という場が、本来であれば存在することのなかった、極めて特異な空間であるとすれば、そこに引き寄せられてきた犬吉の生活もまた、けっして本来あるべきものではない、ということになる。それは、彼女がそこで出会うことになる依田峯三郎や、熊平にとっても同様である。「生類憐みの令」によって本来あるべき場を奪われた者たちが、その象徴ともいうべき「御囲」でどのような体験をしたにせよ、そこはやはり借りの住まいであり、また一時避難の場でしかない。そういう意味では、本書は理不尽な出来事で不遇をかこつことになった者たちが、それでもなお前に進んでいく決意をするという要素をふくんだ物語でもある。

 大切な「お犬さま」であるがゆえに、腫れ物を扱うかのように敬遠されることになった犬たちと、そんな犬たちの不幸にしがみつくように生きている人間たち――そのこのうえなく愚かで、しかしそれゆえに悲しく、また強かな一面を見せる人間たちの姿を、ぜひその目にとどめておいてもらいたい。(2008.03.14)

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