【文藝春秋】
『イン・ザ・プール』

奥田英朗著 



 健康のためなら死んでも惜しくはない、という言葉がある。言うまでもなく、相当に倒錯した言葉だ。

 健康を維持する、というのはきわめて大切なことであり、それが正しいということを否定するつもりはない。じっさい、病気になってしまうと体は思うように動かないし、思考も鈍る。そのあたりのつらさというのは、わかる人ならわかるはずだ。だが、たとえばその「健康」のためと称して、高価な水を買い求めて毎日のように飲み続けたりするような人をまのあたりにすると、そこにどうしても胡散臭さというか、それはちょっと違うのではないか、という疑問を抱いてしまうのは、はたして私だけだろうか。

 薬は適量を用いるからこそ薬であって、量を間違えれば毒になる。逆に言えば、適量であれば毒も薬になる場合がある、ということでもある。それこそ健康のために死すら恐れない、というのは本末転倒きわまりないことなのだが、そのことに囚われている人にはその矛盾が見えていない。

「つまりストレスなんてのは、人生についてまわるものであって、元来あるものをなくそうなんてのはむだな努力なの。それより別のことに目を向けたほうがいいわけ」

(『イン・ザ・プール』より)

 本書『イン・ザ・プール』は、表題作をふくむ五つの短編を収めた作品であるが、いずれの短編においても精神科医である伊良部一郎が登場し、さまざまな症状に悩む患者の治療にあたる、という点で一貫している。伊良部総合病院の地下にある神経科――そこには、あるときは被害妄想にとり憑かれたコンパニオンガール、あるときは心身症に悩む出版編集部員、あるときは男性器が勃起したままになってしまったサラリーマンなど、従来の病気の概念からは判断のつけられない、そもそも本当の意味で病気かどうかもわからない、なんともやっかいな患者が訪れるのだが、それ以上にインパクトがあるのは、なんといっても彼らの相手をする伊良部一郎のキャラクターだ。

「相手をする」などと書くと、医療における治療行為からはかけ離れたもののように思えるが、ある意味でそれは正しい。四十代前半を思わせる、トドのような肥満体、悪く言えば色白のデブである伊良部一郎は、およそ医者という権威からはほど遠い、幼稚な子どもがそのまま大人になってしまったかのような性格をしている。患者から一応の症状を聞きはするが、とくに治療らしい治療をすることはないし、上述の引用にもあるとおり、ストレスの原因を探ったり、その根本を排除するようなことは意図して避けている部分がある。唯一の治療らしい治療といえば、注射をすることだけ。しかも、それもただたんに注射フェチである自分の欲望を満足させたいから、とにかく注射させているようなところがある。

 本書における伊良部一郎の行動パターンは、大きくふたつに要約できる。ひとつは、相手の症状を自分も模倣してみる、というもの。これはたとえば、携帯電話依存症の高校生が出てくる『フレンズ』において、それまで興味もなかった携帯電話を購入し、患者とメールのやりとりをはじめたり、プールで泳ぐことがいつのまにか中毒になってしまった『イン・ザ・プール』では、患者に触発されて自分もプール通いをはじめたりする。

 もうひとつは、患者の症状の原因となっている事物を、あえて過剰に煽るというもの。自分はストーカーにつけられているという被害妄想にとりつかれた患者が出てくる『コンパニオン』において、その妄想をさらにかきたてるような助言をしたり、煙草の火の消し忘れを何度も確認せずにはいられない患者が相手の『いてもたっても』で、ガス漏れや漏電の心配をさせるように仕向けたりといったものである。

 伊良部のところに訪れる患者は、言ってみれば医療難民だ。他の病院や科からは治療不可――というより、そもそも本当の病気なのかどうかすら疑わしいということで回されてきた、というのが大半で、しかし患者自身は大なり小なり自分が病気ではないか、という疑いをもっているからこそわざわざ病院に来ている。だが、肝心の伊良部一郎は、患者たちが考えている「治療」らしいことはほとんど行なわないどころか、むしろ症状が悪化するのではないかと思われるようなことさえやっていて、そのギャップが本書の特長のひとつとなっているわけだが、ここでふと思い至るのは、そもそも「病気」かどうかも判断できないような「患者」に対する「正しい治療」とは、はたしてどういうものなのか、ということである。

 異常という概念は、それと対を成す「正常」の定義がなければ厳密には成り立たないものであるが、そもそも正常とはどういう状態にあるのか、ということについて、私たちははっきりと答えることはできない。これは病気という概念についてもある側面からは成り立つもので、常に体温が38度あるような人にとっては、それが「正常」ということになってしまうのだ。なんとなくいつもと体調が違う――もちろん、その状態が人体の生命維持に重大な損傷をもたらすものであれば、それは治療すべきものとなるのだが、こと伊良部のもとにやってくる患者たちについては、そうしたはっきりとしたものが見えにくい。

 こうした場合について、じつはその根本原因を探るよりは、むしろその状態がどのような不都合を引き起こすのかに焦点をあてるほうがよほど合理的だったりするのだが、伊良部という、とことん楽観的で、人を心配するよりはむしろ人から心配される言動ばかりしているキャラクターは、意図せずそうした合理的選択を実践しているところがある。上述のプール中毒についても、それで誰かが不幸になるわけでもなし、むしろ自分が健康になって体も鍛えられるんだからいいじゃない、という結論に即座にいたってしまうのだ。もちろん、当人やその周囲にいる人にとっては大問題だったりするのだが、そんなふうに思わせないような――他人をも巻き込んでとことん楽天家にさせてしまうような「何か」が、伊良部にはある。

 そしてその「何か」は、少なくとも自分が医者であるというプライドにこだわっている者には、けっして備わらないものだ。大人らしさ、医者らしさ――そうした既存の枠から文字どおりはみだした人物、それが伊良部一郎である。

 こいつばかりは性格がつかめない。どこにもいなかった種類の男だ。どうやって育てられたのか。

(『コンパニオン』より)

 深刻な状況というのは、ともすると主観的なものであって、べつの角度からとらえるとさほど深刻でもなかったりすることがままある。まるで、変な患者の症状をそのまま映し出す鏡のように、さらに変な精神科医――はたして彼は名医なのか、それともただの馬鹿なのか、ぜひとも一読して判断してもらいたい。(2012.05.22)

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