【読売新聞社】
『インザ・ミソスープ』

村上龍著 

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 私たちが住んでいるこの日本という国が、最近どこかおかしい、なんとなく間違っていると感じている人は、けっして少なくないはずだ。だが、具体的に何がどうおかしいのかと言われると、その答えはまるで、霞がかかったように漠然としていてとらえどころがなく、私たちはけっきょく言葉もなく立ち尽くすしかない。自分の周囲はきわめて平穏で、毎日はあたり前のように正常に過ぎていくし、私たちはけっして貧しいわけでもなく、モノも金もその気になれば手に入れることができる、豊かな環境の中で生活している。それなのに、なぜサラリーマンは過労死するほど働くのか、なぜ女子高生は援助交際を繰り返すのか、なぜホームレスなどという人たちが存在するのか、そして、なぜ人々はこういったことを真剣に異常なこととして考えようとしないのか?

 ある意味で、村上龍という作家ほど、現代の日本という、けっしてその真実の姿を見せようとしない社会に対して違和感を抱いている人はいないのではないだろうか。あるときは、『限りなく透明に近いブルー』のような、外人を相手にするゲイの話を、あるときは『トパーズ』のような、SMなどといった異常性愛を、そしてあるときは『五分後の世界』のような、民族主義的なパラレルワールドを書きつづけてきた著者は、常に私たちが「日常」と名づけて安心しようとしている世界の向こう側にあるものに目を向けてきた。それは同時に、それまで絶対だと信じられつづけてきた価値観が次々と崩壊し、ほんとうに大切なものが何なのかわからなくなってしまった今の世の中で、それでもなお人間として何を信じて生きていくべきなのか、という問いかけでもあるのだ。

 本書『インザ・ミソスープ』は、言ってみればひとりの外国人によって、平和なようでいてどこかでたらめなこの国の日常が打ち壊される物語だと言うことができるだろう。外国人を相手に、主として風俗的な観光のアテンドの仕事をしているケンジは、年も押し迫った十二月二十九日になって、フランクと名乗る白人男性からツアーアテンドを依頼されるのだが、この外国人の様子がちょっとおかしいことにケンジは気がつく。トヨタの部品の輸入販売を仕事にしているにもかかわらず、トヨタの車に関してまったく興味を示さなかったり、ニューヨークに住んでいるはずなのにその街のことをほとんど何も知らなかったり、姉妹がふたりいると身の上話をしたその直後に、兄弟と野球をした思い出を語ったり、あきらかにどこか怪しい感じがするのである。しかも、それは常に、凶悪な犯罪の気配を帯びて、ときにケンジを心の底からぞっとさせる悪意に満ちることがある。その悪意が、先日新宿歌舞伎町で起きた女子高生のバラバラ殺人事件と結びついたとき、フランクは紹介された風俗店の中で、ケンジを目の前にして何の前触れもなくその悪意を爆発させることになる……。

 外人、という呼び方をするのは、日本人だけだと言われている。外国人ではなく、外人――その言葉の裏にあるのは、日本がまわりを海に囲まれた島国であり、考え方や価値観のまったく異なる国や民族に侵略された歴史をもたない国、つまり、自国以外の国が周囲に存在するという概念が極めて希薄な民族の住む国であることを意味している。フランクが日本人にとっての「外人」であり、その彼が、日本という異国で異国の人間である日本人を殺戮する、というシチュエーションは、ある意味で非常に象徴的である。

 連続猟奇殺人、というと、いかにも陰惨で血なまぐさい感じが漂うものだが、本書でフランクが行なう突然の殺戮には、ただそれだけでは説明のつかない何かが存在する。人が殺される、ということ、切り裂かれた傷口から鮮血がほとばしり、皮膚の下にある筋肉がむきだしにされること――それは普段、私たちがすっかり忘れてしまっていたリアルな真実をまのあたりにすることでもある。どんなに偉大な業績を残した人であっても、また、どんな絶世の美女であっても、その皮膚の下にあるのは血と臓器、筋肉、骨であるという、リアルな真実、そしてどんな人間にも必ず死は訪れるものであり、死ねば人間もまたただの物体でしかなくなるという現実を、フランクはまさに、理屈ではない、非常にショッキングなやり方で示してみせるのである。

 朝起きて、学校へ行ったり会社で働いたりし、食事をとり、夜になって寝るという、無限につづくかと思えるような繰り返しのなかで、私たちは自分を取り巻くこの世界をどれだけリアルにとらえているだろうか、とふと思う。風俗店にいた人々が次々と惨殺されるというリアルを前にして、ケンジはショックで次の行動をおこすことができなくなるのだが、それは逆に言えば、普段私たちがリアルでない世界、真実が巧妙に覆い隠された嘘の世界で生きることに慣れすぎてしまっていることを意味する。本書の中で、フランクは嘘のかたまりのような存在だった。だが、フランクに殺された新宿歌舞伎町で売春している日本の女子高生や、風俗店に出入りする女たち、そして金で未成年の女を買うことに何の違和感も感じなくなった中年サラリーマンは、本当の意味でどこまで真剣に生きてきたと言えるだろうか。目の前であれだけのリアルを見せつけられたにもかかわらず、ケンジは死んだ連中に対して、まったく同情していない自分の心に気がつくことになる。

 そして、フランクはある廃墟のなかで、ケンジにある告白をすることになる。

「人を殺す以外にするべきことはないと思っていた――(中略)――脳とからだを常に活性化して生きなければ、人はたとえ子どもでも、老人性痴呆症のようになってしまう、脳を流れる血液がどんどん減少してしまう――(中略)――今全世界的に、管理が強化されているから、ぼくのような人間は増えると思う」

 フランクの告白の中には、精神病院で行なわれていた猫の実験の話が出てくる。ボタンを押すと餌が出てくる実験箱で猫を訓練したのち、飢餓状態にして、今度はボタンを押すと電気が流れる実験箱に入れる、というものである。非常な飢えを感じながら、その飢えを満たす方法がわからず、かえって自分自身を傷つけてしまう猫の姿は、そのまま今のどこか狂ってしまった日本で暮らしている私たち自身の姿につながる。そして、今の私たちには、本当に異常なのが猫のほうなのか、それともボタンを押すと電気の流れる実験箱のほうなのか、確かめるだけのリアルを持ち合わせてはいない。

 フランクは殺人という行為で、この世のリアルに近づこうとした。では私たちは、どのような方法でリアルに近づくべきなのだろうか。世界中にネットが張り巡らされ、時間と空間が持つ距離が限りなくゼロに近づきつつあるこの世界でリアルを感じるのは、相当に困難な作業のように思えてならない。(2000.06.30)

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