【東京創元社】
『通訳』

ディエゴ・マラーニ著/橋本勝雄訳 



 たとえば、私は日本語を話す日本人であるが、この「日本語を話す」という要素、日本語が母語であるということは、私というアイデンティティにどのような影響をおよぼすものなのか、ということをふと考える。きっかけとなったのは、ボヤンヒシグの『懐情の原形』や、アーサー・ビナードの『釣り上げては』の書評を書いたときに、はたしてその作品を日本の作家のものと分類すべきか、海外の作家のものと分類すべきかで悩んだことだ。彼らはいずれも日本人ではない。だが、彼らは日本で生活し、日本語を使って作品を発表しているのだ。であれば、彼らははたして何人としての自分を保っているのだろう、あるいはそうした母語という束縛から解き放たれたところで、あらたな自分自身を再構築していると言うべきなのだろうか、という興味が出てくるのだ。

 日本人は虹を七色だと認識するが、アメリカでは虹は六色で、藍色に対応する言葉が存在しないという。同じものを見ているにもかかわらず、用いている言語によって色の数が変化する――この差がどこから来るのかと言えば、おそらく日本語を用いて物事を考えているか、アメリカ英語で思考するかの違い、ということになる。だとすれば、自分の母語が何かという要素は人格形成において、けっして無視することのできない影響をおよぼすものと考えるべきなのかもしれない。今回紹介する本書『通訳』は、その冒頭において語り手が自身の「破滅の物語」であると宣言するが、それは彼を見舞うことになる言語の混乱が大きな要因となっている。

 世界には秘密の言語が存在し、わたしたちのばらばらなことばのひとつひとつに隠れて鼓動しているんだ、物や動物、この草や石にさえ、その言語が生きていて、それを通して宇宙の惑星が交信しあっているんだ、そう考えただけで人は戸惑ってしまう。

 本書の語り手であるフェリックス・ベラミーは、ジュネーヴの国際機関で通訳サービスの責任者に就いているが、そんな彼のもとに部下からある報告が寄せられてきた。それは、通訳のひとりが同時通訳の仕事中に異常を来たす――まったく意味不明な奇声や口笛を発したり、本来用いるべき言語とは異なる言語を用いたりすることを止めないのだという。十六ヶ国語を操る優秀な通訳であるが、さまざまな手段を講じたものの、そうした異常について今以上の改善は望めそうもなく、解雇という処置をとるべき段階にまで来ていたのだが、その問題の通訳は、「自分はあらゆる生物に通じる普遍言語、エデンの原初言語を発見しかけている」と語り、そのためには世界中の言語の坩堝である今の仕事をつづけることが必要なのだと食い下がってくる。
 けっきょく、フェリックスはその通訳を解雇することになる。通訳はそれでもなおしばらくのあいだフェリックスにつきまとったものの、最後には引き下がったのだが、そのとき彼が発した言葉は、まるで伝染性の疾患のようにフェリックスの体を蝕むことになる。そう、いつのまにかフェリックスは、その通訳同様の言語障害を負うことになっていたのだ……。

 はたして、その通訳が発見しかけていたものは、本当にあらゆる生き物の根源につらなる真の言語だったのか、そうだったとして、彼はどこで何をしようと目論んでいるのか、そして、フェリックスの言語障害は回復するのか? 一時期は精神科医のもとで治療を受けていたものの、不意に家を出ていった妻のイレーネが、じつはその通訳にぞっこんだったという証拠や、同じように治療を受けていた患者のひとりが、その通訳と知り合った経緯などの情報を得た彼は、その問題の通訳を見つけ出す必要に迫られることになる。そういう意味において、本書はただ語り手から「通訳」と呼ばれる謎の人物と、彼が発見しかけていた謎の言語にかんするミステリーという捉えかたもできるのだが、本書の本質は、ミステリーというよりも、むしろ言語にかんするある種の実験という意味合いが強いと言うことができる。

 フェリックスという人物は通訳センターの責任者という地位にいたが、彼自身通訳というわけではない。彼の母語はフランス語で、あとはドイツ語が少々できるという程度のものでしかなく、スイスという国においてはけっして珍しいことではない。だがここで重要なのは、フェリックスが通訳という仕事に対して、あまり良い印象をいだいてはいない、という事実のほうにこそある。彼の言を借りるなら、言語というのは「歯ブラシ同様、各人が自分の物だけを口に入れるべき」ものであって、複数の言語を話すということは、話す言葉のぶんだけ自己が分裂していくことだということになる。

 そのいっぽうで、フェリックスの対極に位置するのが例の通訳である。十六ヶ国語を操り、本書のなかでさらに多くの言語を貪欲に取り込んでいっているらしいその通訳は、ある意味でフェリックスの考えを具現化した典型的な「通訳」の像でもある。その通訳には名前が与えられていない。ただ「通訳」としか呼ばれない彼は、逆に言えば通訳以外のどんな属性も与えられていない、ということになる。彼がどんな顔をしているのか、誰も説明することができない、というひとつの特徴も、彼が何語を話すのか、という特徴が彼にとって何の意味ももたないことを強調するものだ。つまり、彼は何者でもないのだが、同時に何者にもなれるということである。それが、彼の見つけ出そうとしていた真の言語のもつ属性でもある。

 フェリックスの言語にかんする考えは、自分たちの使う母語がアイデンティティに大きな影響をおよぼしている、というものだ。そして、例の通訳によってかけられたある種の「呪い」ともいうべきものは、そのアイデンティティたる言語をかき乱すものとしてフェリックスに作用した。本書のなかで、フェリックスは通訳の跡をたどってヨーロッパじゅうを旅することになるのだが、その過程において彼は名前を変え、犯罪者となって強盗をはたらいたり、浮浪者になったりといった極端な転落ぶりを見せることになる。このフェリックスの、通訳を追うという物語本来の流れから逸脱するようなエピソードと、彼自身の奇妙な遍歴は、彼のアイデンティティである母語を失いつつあるからこそのものだと考えると、納得のいくものである。そもそも、彼が言語障害になって最初に行なったのは、とある精神科医のもとに赴いて、複数の言語講座を受けるという奇妙な療法を試みるというものだった。

 ある対象があって、それを表現するたったひとつの言葉がある――たとえ、もちいる言語が異なっていても、ある対象を指し示すための本質はただひとつである、という考えは、ソシュールの言語学によって否定された近代以前の概念にすぎないが、それでもなお私たちが、すべてに共通する普遍的言語の存在に惹かれてしまうのは、それだけ私たちが言葉というものに依存しているということであり、そういう意味で、私たち人間は言語というものに束縛されている、ということでもある。そうした絶対的な力の存在を思わせる本書の展開は、たとえばパトリック・ジュースキントの『香水』に登場するグルヌイユの、圧倒的な臭覚の力を思わせるものがあるのだが、その依存すべき言語をある意味で超越してしまったその通訳が、そしてそんな彼の言語ならざる言語に汚染されてしまったフェリックスが、はたしてどんな運命をたどることになるのか、その顛末をぜひともたしかめてもらいたい。(2008.06.10)

ホームへ