【早川書房】
『楽園の知恵』
−あるいはヒステリーの歴史−

牧野修著 



 人間の精神における「健常」と「異常」の境界線がどこにあるのかを考えるさいに、私たちがまず認識しておかなければならないのは、かつての人間社会では、狂人を共同体の成員として認知していた歴史があったという事実である。古代において狂人であることは、何らかの理由で神がその人間に狂気を宿したという思想がふつうに受け入れられており、しばしば狂人は神のことばを伝える巫女としての役割をはたしたていたとされているし、中世ヨーロッパにおいては、狂人は信仰をもつことの大切さを伝えるための「生きた教訓」としての役割を与えられていた。神や悪魔が現実社会に影響をあたえていた時代において、彼らはそうした超常的存在と人間とを橋渡しするための神聖なものとして、必要とされていた部分があったのだ。

 今、私たちの生きる社会では、狂人は標準からはずれた「異常」なものとして線引きされる。異常であるからには、それは何らかの病気であり、治療の対象として扱われなければならない。狂人が異常者であるというある種の常識――しかし、かつての社会では狂人にも狂人としての役割が与えられていたことを考えると、その時代と今とのあいだに、人間の「標準」を規定するような力が作用したとみなすことができる。狂人を精神異常者としてさまざまな病名をあたえ、健常者との線引きをしたのは、他ならぬ私たちが礼拝する人間の知識であると看破したのは、フランスの哲学者フーコーであるが、そんな人間の知識によって狂人とともに否定された、かつての超常的存在である神や悪魔ははたしてどこへ行ってしまったのか、と考える人がいたとしても、不思議なことではない。

 牧野修といえば、以前読んだ『だからドロシー帰っておいで』においても、ひたすら妄想世界を突き進む主婦の狂気を描き出していたが、今回紹介する短編集『楽園の知恵』でもその作風は健在だ。言葉によって狂気と妄想の世界を綴っていく本書に、およそストーリー性やテーマといったものを求めること自体が無意味であるし、本書のほうでもそんなことを望んでいるわけではない。だが、それでもなおそのテーマを言葉にするなら、こういうことになるだろう。私たちが生きる人間社会において、いつのまにか「常識」として植えつけられたある種の偏見的なものの見方を、ほんの少しズラしてやることそのものがテーマである、と。

 本書では13の短編を「診断」「症状」「諸例」「療法」という四つの章に分類し、全体をとおしてヒステリーの治療過程をたどるような構成をとっているとされているが、その四つの分類方法に目立った共通点やテーマ性が見いだせるわけではない。もし本書に収められた短編を分類するのであれば、むしろその視点に注目すべきである。そして、そうすることで見えてくるのは、誰かの主観によって世界がとらえられているか、あるいは客観的な視点によって構成されている世界であるか、という二種類の分類である。

 前者に属するものとしては、「診断」に属する三作などがそれに該当する。自分が夢をみない理由について考えている『いかにして夢を見るか』などは、まさに前者の代表格であるが、私たち読者が作品世界と相対するとき、私たちは無自覚に自分たちの「常識」を作品世界にもあてはめようとする。だが作品を読み進めていくと、その作品内世界がどうにも常識からはずれた法則によって支配されていることに気づく。そこははたして死後の世界なのか、あるいは人が人として生まれる以前の世界なのか? 人の生と死の境界線がこのうえなく曖昧なその世界について、私たちが触れることができるのは、あくまでその主体となった人物の主観をとおしてでしかなく、そのときになって、彼らの見る世界と私たちの見る世界とのズレを意識させられることになる。

 後者については、たとえば『バロック、あるいはシアワセの国』が代表格であるが、ここでは「時の王国」という、人の内的時間にその価値観を置いたとされる国について、いくつもの視点――文献やネットの掲示板からの引用を組み合わせることで、いかにもそれらしい実在感をもたせようとしている。だが不思議なことに、本来であれば対象の実在感を膨らませるために用いられるテクニックが、その書かれる世界のあまりの非現実性ゆえに、むしろ正反対の効果をあげてしまっている。現実にはありえない妄想を、あたかも言葉の力によって現実化しているかのような違和感は、けっして私だけではないはずである。

 私はこの書評において、その章立てとは異なった分類をとりあえず提示した。だが、そうした分類もまたほとんど無意味であることに、すぐに気づくはずである。なぜなら「客観的な視点」と言われるものも、けっきょくは複数の主観の寄せ集めでしかなく、そのことごとくが狂気や妄想に支配されていたとすれば、私の分類にどんな違いが出てくると言えるだろう。そしてそれは、本書の章立てについても同じことが言える。「ヒステリーの治療過程をたどるような構成」を施された本書ではあるが、それも本書の内容を狂気や妄想と位置づける「常識」という名の偏見にもとづくものだ。だが、ここに収められている短編集は、むしろそうした「常識」のこのうえない曖昧さ、脆さというものを露呈する結果となっている。

「この世界はすべてあなたの妄想じゃないんですか。廃液のプールから救い上げられ、身動きできないままのあなたの妄想では。――」

(『ドギィダディ』より)

 私たちが知らないうちに支配されている「常識」から、ほんの少しズレたところで成立している世界――そこで展開されているのは、私たちのとらえる現実ではけっして見ることのできない景色だ。だがその景色は、まだ狂人が狂人としての役割をあたえられていた社会においては、ごくふつうの光景として人々の目に映っていたかもしれないものである。ときに悪夢のようなグロテスクさを、ときにホラーを思わせるようなSF的不気味さを私たちに突きつける本書の世界観に、はたしてあなたはどのような思いをいだくことになるのだろうか。その「思い」とは案外、自分のなかで不変だと思われている「常識」が崩れ落ちていく音なのかもしれない。(2013.04.13)

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