【小学館】
『命』

柳美里著 

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 家族とは何なのか――『家族シネマ』にしろ、『フルハウス』にしろ、柳美里という作家が、その作品の中で描こうとしていたのは、常に自分にとっての家族をどのようにとらえるか、という問題だったように思う。母が愛人をつくって家を飛び出したのをきっかけに、父、母、著者とその妹で構成されていた家族が離散、それぞれがまったく別の道を歩んでめったに会うこともない、という生活をつづけてきた著者にとって、すでに家族は終わってしまったものであり、家族の絆などもう存在しないにもかかわらず、それでも世間一般で家族の幸福と信じられている「家族団欒」を演じるというのは、おそろしく醜悪で、また滑稽なもののように映ったに違いない。

 だが、まるで生まれたときからひとりだったかのような著者が、他の誰かが与えてくれるものではない、自分からひとつの「家族」を築きあげていかなければならなくなったとき、それはいったい、どのような形を成すことになるのだろうか。

 本書『命』は、著者自身が体験した妊娠、出産の体験を記したノンフィクションである。それと同時に、著者がかつて所属していた<東京キッドブラザーズ>というミュージカル劇団の演出家である東由多加を襲った食道癌との闘いをつづったノンフィクションでもある。著者を妊娠させた男性は、すでに家庭をもっている35歳の報道関係者であり、東由多加の癌は、たとえ治療を施したとしても1年程度の延命しか望めないほどに悪化していた。

 女性にとっての妊娠、出産というイベントが、その人の一生を左右するかもしれないほど重大な出来事であることは、男の私でも容易に想像のつくことだ。自分とは異なった命を胎内に宿す、というのは、自分の体がもはや自分だけの命ではなくなってしまうことでもあり、それは家族から離れてひとりでいることが基本となった著者にとっては、肉体の変化がもたらす体調不良などとは比べ物にならないほどのストレスであったはずなのだ。そして10ヶ月を経て出産をはたしたのち、それ以上の年月にわたって女性を縛りつづけるであろう養育の問題――だが、何よりも著者が困惑したのは、ごく普通の家族に当然のようにあるはずの幸福を知らず、また自身も市民と称される人々の価値観とはまったく無縁の場所で、なかば引きこもるように劇や小説の世界にひたっていた自分が、妊娠という事実から、現実問題として自身の家族の形と直面しなければならなくなった、ということに尽きると思う。

 それは、自身の妊娠、出産のためには誰かの手助けが必要だ、ということを意味している。同時に癌との闘病にはいった東由多加にとっても、誰かの手助けが必要であった。胎児という生へと向かうものを宿した著者と、癌という死へと向かうものを抱えた東由多加――それはまったくの対極を成すものでありながら、「命」そのものが切迫した問題として立ちふさがっている、という意味ではふたりとも同類であり、どちらもかけがえのない「命」として著者のなかでは結びついた、ということでもある。

 東が癌にならなければ、わたしは堕胎していたかもしれない。ひとつの命の終わりを拒絶した者に、どうしてひとつの命のはじまりを奪うことができるだろうか。私は胎児と癌というふたつの存在が、命という絆で結ばれたような不思議な感覚を持った。そして命の誕生と再生にでき得るかぎりの力を尽くして献身しようとこころに決したのだった。

 そして、ふたりはまるでギブアンドテイクのように、共同生活をはじめることになる。その形は、世間の常識から見れば、いびつに歪んだ関係の上に成り立っているものだ。だが、不思議なことに、本書を読みすすめ、柳美里という作家の人となりに触れるにつれて、まさに彼女にとっての「家族」とは、たとえば家族愛とかいった甘ったるいものではなく、生々しい「命」そのものを絆とした、切迫した関係をもってしか成立しえない、と思わずにはいられなくなってくる。

 そもそも、日系韓国人でありながら日本の文化の中で育ち、日本語しか話すことのできない著者は、自身の属する国や民族のアイデンティティにおいても不安定な立場にいる方だ。そのうえ家族という単位でも自分の居場所を見出せないまま、世の中の不条理をまともに背負って潰されそうになりながらもただひとり、自分の足で立って今を生きている著者の姿は、はたで見ているだけでも痛々しい。ニュースでも話題になった『石に泳ぐ魚』の発禁騒動をはじめ、文字どおり血を流しながら原稿を書きつづけたり、泥沼化していく胎児の認知争いなど、まさに疲労困憊、本書の言葉を借りるなら、「断崖ぎりぎり」のところで「物狂っていた」ということになるだろうか。

 自分が家族の一員となることを想像することもできない著者、父親が不在の赤ん坊、そしてその残り少ない命を、父親代わりに使おうとする東由多加――そういう意味では、三人が三人とも切迫した状態にいると言ってもいいだろう。だが、その三人をひとくくりにしたとき、そこには既存の価値観がけっして入りこめない、生と死をただ見つめていこうと決意した者だけが持ちえる、静かで潔い関係がある。本書が生々しい現実を描いたノンフィクションでありながら、どこか悲劇を観たときに訪れるカタルシスのような清らかさを感じさせるのは、三人の関係が利害とか打算といったものを超えた、切迫したものだからこその純粋さで結ばれているからではないだろうか。

 わたしは家族によって疵つけられた魂で、疵ついた家族を愛し、求めていたのだ。だから家族の崩壊をテーマにしながら、常に家族の再生のイメージを胸に抱き温めていた。――(中略)――わたしが思い描いていたのは、東由多加とわたしと丈陽の三人の家族――、同じ箱舟に乗り込み洪水を越えて新天地に向かうというイメージだった。

 現実がその人にとって「生きていくことのできない」ものであったとき、虚構の世界を築くことで、自分がいかに生きるべきなのかを模索していくのが文学の一形態であるとするなら、常に家族の形を描きつづけた著者の作品は、まさに書かなければ生きていけなかった切迫感に支えられていた文学と言っていいだろう。しかし、本書の中の世界は虚構ではない。それは、それまで虚構の中で模索してきた自身の「家族」の形を、妊娠・出産というイベントが後押ししたとはいえ、現実の問題として目を向け、それでも「生きていくことのできない」現実を生きていくために書かれた、戦慄すべきノンフィクションなのだ。(2002.02.22)

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