【徳間書店】
『イノセンス』

山田正紀著 



 人生においてもっとも悲惨なことは、大切なものを失くしてしまうことではなく、失くしてしまって、なお生きていかなければならないことではないか、と思うことがある。たとえば、人の命というのは一度失ってしまったらけっして取り戻すことのできないものであり、そのかけがえのなさ、代替のきかなさという意味では、何を差し置いても守るべき大事なものであることに間違いないが、命を失って悲しい思いをするのは、命を失った本人ではなく、残された人たちである。死んだ人間は、もう何も感じることはない。そういう意味では、大切なものを失くしてなお生きていく自身に悲しみを感じるという行為は、たんなる自己憐憫にすぎないものだとも言える。

 だが、何かを喪失して悲しみにくれるためには、その対象に特別な思い入れを持っていなければならない。それは、あたりまえと言えばあまりにあたりまえのことではあるが、自分にとって、自分の人生にとって、自分の生そのものにとってなくてはならないものだと思えるほど大切なものを、私たちははたしてどれだけ抱えているだろうか。たとえ自己憐憫と言われようと、何かを失って純粋に悲しいと感じる心は美しい。そして、その悲しみを素直に感情に出すすべをもたない人たちの姿は、悲しいというよりも、むしろ痛々しい。そう、それは本書『イノセンス』に登場するバトーのような男のことである。

 喪失感だけがあった。それ以外には何も残されない。

 おそらくは世界で唯一の、対サイバー・テロに特化した特殊部隊である公安九課――そこに属するバトーは、飼い犬であるガブの餌を買った帰りに何者かのサイバー・テロを受ける。ハンドルを握ったとたん電脳空間からジャックされ、暴走をはじめた車を止めようと奮闘するバトー、その危機を救うことになったのは、車に乗り込む直前に出会ったアンドウという名の浮浪者だった。だが、そのために電脳の一部に障害を引き起こしたアンドウを救うため、バトーは自身の電脳と彼の電脳とシンクロさせたうえで再起動を試みる。その結果、彼がまのあたりにしたのは、飼い犬ガブが自分のもとから離れていき、行方不明になったという事実だった……。

 近未来の日本を舞台とした本書において、複雑に張りめぐらされたネット空間は人間の脳を代替できるほどの広がりと進化をとげていた。バトーは脳もふくめ、体のほとんどが義体化されたサイボーグであり、彼の一人称で進められていく本書では、当然のことながらそんなサイボーグの視点に拠ったものとなっている。あくまでデジタルな情報に特化しているがゆえの、見えない敵との独特の攻防戦や、生身の脳ではなく電脳を備えているがゆえの特殊な駆け引きや思考回路、また義体や電脳に関する専門知識など、サイバーパンクを髣髴とさせる世界観でありながら、その独特の世界で生きるひとりの男の姿がきわめてリアルに立ち上がっている本書であるが、そうした要素とは別に、生身の体の部分をほとんど持たないはずのバトーの言動は、非常に人間臭いところがある。その最たる例が、彼が飼っていたバセットハウンドのガブに対する愛情である。

 じっさい、本書におけるバトーの行動の根底にあるのは、おそらく何者かの手によって攫われたらしいガブの行方を追う、という一点のみである。その気になれば、生身の人間よりはるかにすぐれた情報分析力と戦闘力を誇るであろう、そしてその気になればはるかにさまざまなことができるであろうバトーであるにもかかわらず、たかがというのはいささか失礼かもしれないが、たかが一匹の犬に見せる並々ならぬ執着は、何もかもがデジタル化された――それこそ、人間の脳や情操でさえもデジタル化が可能である本書の世界観からすれば、むしろ異質とも言うべきものであるが、じつはこの執着の感情、自分以外の何かに対する思いの深さこそが、バトーを唯一人間たらしめているものであり、逆にこの感情に執着しつづけることが、すでに生身の体を失っているバトーをひとりの人間としてつなぎとめているという事実を、読者はしだいに感じとることになる。

 人が何かを愛するときには脳内に一種のエンドルフィンが分泌される。電脳の結晶構造においては、その神経ペプチドが数式に変換され、それが生体の神経伝達物質に擬似的な作用をもたらす。それが愛であれ、怒りであれ、そもそも数式に変換されるような感情が感情の名に値するものであるかどうか……いずれ義体はその疑問に行き当たらざるをえない。

 バトーは義体を手に入れることで何かを得たというよりも、何かを失ったという思いをより強くしている。彼は過去に相棒だった素子と別れ、そして今はガブを失った。義体としての体は彼自身のアイデンティティを確立するにはあまりにもつくりものめいており、情動にしたところで同じことである。それがあくまで電脳の数式によってコントロールされたものであるなら、バトーという人格は、はたしてどこまでがつくりものであるのか――本書にはバトーにかぎらず、生きていくうえで少なからず何かを失ってしまった人物が何人も登場する。そして彼らは、おそらく二度と取り戻せないであろうその「失ったもの」に対する喪失感を抱えて生きている。本書全体を覆う、灰色の雨のように陰鬱で物悲しい雰囲気の多くは、彼らの喪失感の深さによってかもし出されているものであるが、ときに五感や記憶そのものさえデジタル化され、まがいものとして生み出されてしまう世界において、彼らの唯一のアイデンティティが、「失ったもの」に対する喪失感のみによって成り立っているのだとすれば、それはなんと哀しいことであるか。

 そういう意味において、バトーがガブを探し求めるのは、たんに飼い犬への愛情であることを越えて、バトーをバトーたらしめるアイデンティティを探し求めることでもあるのだ。そしてその思いは、何度電脳が初期化されたとしても消失することのない、いや、消し去るべきではない唯一のものでもある。

 本書のなかには「ガイノイド」と呼ばれる、今で言うところのアンドロイドの概念が出てくるが、同じ機械の体、同じ電脳を、同じ数式によってコントロールされたものであっても、人間をベースにするのとしないのとでは、そこに大きな違いが生じるとされている。人間にはあってガイノイドにはないもの、それを本書の世界では「ゴースト」と呼び表しているが、その存在は証明されないものの、しかしたしかに存在するとわかるという、蜘蛛の糸のごとくはかないものにすがって生きるしかないバトーたちの生き様は、たしかにやせ我慢をして生きていくハードボイルドの世界にはふさわしいものである。

 電脳を初期化するたびに、とくに重要ではないノイズは消去されていく。その選別の基準となるのは何なのか――だが、ひとつだけ言えることがあるとすれば、もし何度初期化を施されたとしても、なお残りつづける思いがあるとすれば、それはやはり目には見えない「ゴースト」が、人間をたしかなひとりの個性たらしめている魂とでもいうべきものが抱えているものであり、その思いは何よりも「イノセンス」なものだということである。(2006.03.16)

ホームへ