【原書房】
『イニシエーション・ラブ』

乾くるみ著 



 私はまだ結婚したこともないし、またその予定も当分ありそうもない身なので、正式に結婚相手を決めるときの心境というものについては想像するしかないのだが、たとえば「谷川俊太郎の33の質問」の中にある、「何故結婚したのですか?」という設問の、ネット公開なさっている既婚者の方々の回答を拝見していると、多分に「はずみで」とか「いきおいで」とかいうものが多いことに驚かされた記憶がある。結婚という、自分のその後の人生を大きく決定づける重大なイベントに対して、そんな軽はずみなことでいいのか? とそのときは思ったものの、あるいはそういう「はずみ」とか「いきおい」とかいったものをもってしか、最終的に結婚に踏み切るきっかけとなりえない、という点に、正式に結婚相手を決めることに対する難しさがにじみ出ているともいえる。

 たとえばちょっと、こんな状況を設定してみよう。あなたは現在、付き合っている相手がふたりいる。仮に、AとBとしておく。Aは最初に好きになった人で、付き合いもそれなりに長くつづいているし、気心もある。Bとは最近知り合ったばかりなのだが、付き合う相手としてはとても魅力的な要素をもっており、あなたの理想像に近い。そしてふたりとも独身で、自分に好意をもっており、どちらも結婚相手としては同じくらい申し分ないと思われる。さて、はたしてあなたはどちらを選ぶべきなのか――ここでマンション販売の営業マンであれば、「そりゃやっぱり自分のマンションを持っている人でしょう」なんて話術をもちいてくるところだろうが、おそらく実際は、付き合っていた長さとか、恋愛経験の差や結婚に対する価値観とか、性格や収入とか、あるいは「妊娠しちゃった」といったトラブルなど、さまざまな要素が複雑に絡み合った結果として生じるものだと認識している。あるいは、そういう複雑な要素がからみあう状況を、既婚者の方々は「はずみ」とか「いきおい」といった単語で表現しているのかもしれない。

 初めて恋愛を経験したときには誰でも、この愛は絶対だって思い込む。絶対って言葉を使っちゃう。でも人間には――この世の中には、絶対なんてことはないんだよって、いつかわかるときがくる。――(中略)――それをわからせる恋愛のことを、彼はイニシエーションって言葉で表現してたの。

 本書『イニシエーション・ラブ』は、言ってみれば誰かをはじめて好きになる、というめくるめく感覚、純粋でまっすぐな気持ちを一種の「通過儀礼」として、恋愛や結婚という考え方に対してより大人の――けっして純粋でも初々しくもないが、より現実に即したものの見方で恋愛ができる大人へと成長していく若者たちの物語である。もくじを見てみると、全体をA面とB面とに分け、A面では一人称の語り手で、静岡の大学生でもある「たっくん」が、たまたま人数あわせで参加した合コンで知り合った成岡繭子(マユ)にひと目惚れし、不器用ながらもお互いに好意をもっていることを知って恋人どおしになっていくという、読んでいるだけで恥ずかしくなってしまうようなメロメロの純愛物語が書かれ、B面では彼女のためにわざわざ内定していた東京の会社を蹴って、地元の静岡の会社に就職した「たっくん」が、しかし東京勤務を命じられてしまい、マユとは遠距離恋愛をはぐくむものの、その東京の支社で知り合った石丸美弥子にも心を奪われていき、マユとの仲がだんだんと疎遠になっていく、というほろ苦い恋愛物語が書かれている。上述の引用は、そのときマユとの恋愛に誠実でありたいと考えるたっくんに対して、石丸美弥子が語ったことであり、本書のタイトルもそこからとられていることがわかるのだが、ここまで書評を読んで、ああそれだけの物語なんだとお思いの方がいらっしゃるようなら、本書のラストの2行を読んだ時点で、きっとびっくり仰天するに違いない。そして、間違いなく本書をもう一度読み直さずにはいられなくなるだろう。

 そう、本書の最大の読みどころは、まさに本書に仕掛けられた二重の物語構造と、そこにいたるまでの数々の伏線にこそあり、本書の登場人物たちが織り成す恋愛とかいったテーマは、その謎を彩る副産物、いや、むしろ本書の謎を覆い隠すためのカモフラージュでしかない、という見方さえできると思う。そういう意味では、本書は間違いなくミステリーである。それも、歌野晶午の『葉桜の季節に君を想うということ』に匹敵するミステリーだ。

 ところで、よく恋愛ものとかラブコメディーとかいったもので、最初はなんの変哲もない、それまで恋愛とは無縁の状態にあった主人公の男の子が、いったん誰かを好きになり、その女の子と付き合うようになったとたん、まるで磁石のようにいろんな女の子が彼の周囲をとりまいていくという、一種の「ハーレム状態」になることがよくある。こうしたシチュエーションについて、私は以前から疑問に思いつつも、まあ恋愛もののお約束だからということでこれまでは流してきたのだが、本書における「イニシエーション・ラブ」という考え方が、あるいはこの疑問に答えてくれるのではないか、と考えている。通過儀礼としての恋――その愛は永遠だと信じることができる恋愛を経験した者と、そうでない者との間には、異性を相手するという意味で、それだけで大きな差が生じている、ということである。そして、現在どれだけ女たらしのプレイボーイであり、またどれだけすれっからしの女性であっても、かつてはたしかにイニシエーション・ラブの体験者だったはずなのだ。

 本書に仕掛けられた大きなトリックは、それだけで衝撃的なものであることはたしかだが、同時にそのトリックがあきらかになったとき、読者はきっと、永遠が永遠でなくなる瞬間のほろ苦さ――自分は子どもだと思っていた人が、ある日突然、自分はもう子どもではないことをはじめて自覚したときに感じる、寂寞とした思いにとらわれることになるだろう。人と人とのあいだに生じる複雑な気持ちの変化が、そこにはたしかに描かれている。(2004.10.22)

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