【誠信書房】
『影響力の武器』
−なぜ、人は動かされるのか−

ロバート・B・チャルディーニ著/社会行動研究会訳 

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 これまで、それなりにいろいろな本を読んできてわかってきたことのひとつに、私もふくめた人間というものは、自分が思っているほど自由でも自立的な存在でもはない、というのがある。そこにはもちろん、社会的な立ち位置――たとえば血縁関係をはじめとする、自分が所属する組織や集団による束縛も含まれるが、それ以前に、より原始的な部分においても、私たちは自身の行動や考え方に大きな影響を受けてしまうことが、脳科学の分野から少しずつあきらかになってきている。

 たとえば笑うという行為は、何か楽しいと思えるような感情が自分の内からわきあがってきて、それが笑いという形で表情に出てくるものだと思われているが、脳科学者である池谷裕二の著書『脳には妙なクセがある』によれば、逆に笑いの表情をつくることがスイッチとなって、脳内に楽しいという作用が生じると述べている。つまり、私たちの意識とは無関係に、笑顔をつくれば楽しい気分になるということで、これは私たちの言動が自意識によるというよりも、むしろ外的情報や身体的機能に依存していることを意味している。

 私たちがふだん思ったり考えたりすることの大部分が、じつは過去に誰かが思ったり考えたりしたことの模倣にすぎなかったり、あまりにあたり前すぎて意識すらしない常識や偏見によって歪められていたりするのは、構造主義の見地からも言われ続けていることだ。そしてそんなふうに考えたとき、では他ならぬ自分のものだと思い込んでいる主体性とは、いったい何なのかという疑問が出てきても不思議ではない。今回紹介する本書『影響力の武器』は、そうした私たちのなかば自動的な行為――あまり深く考えることなく物事に対して承認してしまう行為について、そのメカニズムをわかりやすくまとめた本であり、とくに人によく騙されて損をしたり、やりたくもないことをついつい引き受けてしまったりする方たちはぜひ一読してもらいたいのだが、私が何より本書を評価するのは、そうした承認衝動がなぜ起こってしまうのか、というラディカルな命題にも焦点をあてているという点である。

 私たちは、とてつもなく複雑な環境に住んでいます。これほど急激に変化し、複雑に入り組んだ環境がこの星に存在したことは、これまでに一度もありません。これに対処するためには、思考の近道を用いることが必要なのです。――(中略)――ですからどうしても、ステレオタイプや経験則を使わざるを得ません。そして信号刺激となるいくつかの特徴に照らして物事を分類し、もしそうした特徴があれば、考えるより早く、それに応じた反応をするのです。

 私たちがある事柄にかんして無知であるのは、それを知る機会がないとか、面倒くさいとかいった理由ではなく、「知りたくない」と無自覚に思っているからにほかならない、という言及が、内田樹の『寝ながら学べる構造主義』のなかにある。無知は怠惰ではなく、努力の結果なのだというその指摘は、私たちにとって何かを知ること、そしてその知識を正しく検証し、何が良くて何が悪いことなのかを判断して行動づけることが、思いのほか重荷であるということを示している。本書の冒頭では、七面鳥の母鳥がヒナを守ろうとする行動が、母性愛とかいった意識によるものではなく、ピーピーと鳴くヒナの声だけに反応する、自動的なものであるという実験結果を紹介しているが、このいっけんすると愚かで原始的な反応が、そのまま私たち人間においてもあてはまるという本書の指摘は、じつは主体性とか自意識とかいったものがなかば幻想にすぎない――たとえそうでなかったとしても、じつはそれほど私という個人において大きな部分を占めているわけではない――という点において、至極的を射たものだと言うことができる。

 これは逆に言うなら、自意識などといった大層なものを持っていない動物であっても、その自動的な反応があるおかげで適切な行動をとることができるということでもある。じっさい、七面鳥の母鳥はそれで何も考えずともヒナを守ることができている。その反応がエラーを起こすのは、人間の研究者が意図的にヒナの声を発し、母鳥に間違った行動を起こさせようとするような場合だけなのだが、これを人間の世界にあてはめると、じつは私たちの生活のいたるところで、こうした原始的な反応を起こさせるような仕掛けがあり、またこの反応を逆手にとって、自分に有利なように物事をもっていこうとする者もまた多いということが、本書を読み進めていくと見えてくる。

 なんらかの恩義を受けると、そのお返しをしなければならないと考えてしまう、一度引き受けた事柄に対して、是が非でも守ろうと努めてしまう、行列ができる店に並んでしまったり、あきらかに間違っている上司の指示に従ってしまったり、あるいは欲しくもない商品を「期間限定」というセールストークで買ってしまったりという、私たちがついつい失敗してしまうさまざまなエラーについて、本書は「返報性」「一貫性」「社会的証明」「好意」「権威」「希少性」の六つの原理に分け、具体的な事例をまじえつつ、その原理と対策について紹介しているが、そもそも私たちがなぜ、そのような自動的な反応に身をゆだねてしまうのかについて、著者が述べているのは、いずれも「そうすることが有利であるから」というものである。

 たとえば「社会的証明」とは、「特定の状況で、ある行動を遂行する人が多いほど、人はそれが正しい行動だと判断」するという私たちの行動原理のことであるが、なるほど、大勢の人がある方向に逃げていくのをまのあたりにすれば、たとえ真実は分からなくとも、その逆の方向に何らかの危険が迫っていると判断することは可能だ。そしてその危険がクリティカルなものであるなら、危険の正体を見極めるより前に、自分もまた「逃げる」という行動を起こさなければ、最悪命にかかわるかもしれない。つまり、見たところ盲目的で機械的な「固定的動作パターン」に私たちがつい反応してしまうのは、生き物としてはきわめて正常な行為だということになる。

 しかしながら、本書のなかでも指摘されているように、かぎりなく複雑に入り組んだ社会のなかで生きなければならなくなった現代において、原始時代においては有効であったこうした反応が、しばしば誤動作を引き起こすことがある。しかもタチの悪いことに、今や時代遅れになったこの反応を、私たちはだからといって容易に切り捨てたり、修正したりすることができないという問題がある。本書では悪意をもってこうした「固定的動作パターン」を引き出そうとする者たちに対して、どのように対処すればいいのかについても書かれているのだが、けっきょくのところ一番重要なのは、そうした事実があると意識することであり、それはつまるところ、どのように知識を獲得し、それをどのように実生活に応用していくかという、きわめて人間的な行為につながることでもある。

 なぜ「所有権」という概念が定着することになったのか――具体的には、なぜ他人の物を盗むのが悪いことなのかという命題に対して、そうするほうが最終的に自分の財産を守ることができるから、という結論がある。これは私たち人間が、相互扶助によって生きていく生き物であることの証左でもあるのだが、そうである以上、本書で取りあげられている「固定的動作パターン」が、本来的には「正しい選択」でなければならない、という強い主張がそこにはある。なぜなら、もしそうでなければ、私たちはあらゆる言動に対して常に疑念の目を向けなければならず、その結果何も選択できなくなったり、真に正しいことを拒絶してしまったりするという、あらたなエラーを抱え込むことになるからだ。そうなれば、私たちはもはや社会的生活を維持することができなくなると言っても言い過ぎではない。

 情報が今以上に氾濫し、あまりに情報が多すぎて選択することすら困難な世界に移行しつつある今、私たちはあらためて、自分のなかに無自覚に存在する「カチッ・サー」について、意図して目を向けるべきである。(2014.10.18)

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