【水声社】
『モレルの発明』

アドルフォ・ビオイ=カサーレス著/清水徹・牛島信明訳 



 たとえば、ファクシミリを使ってある書類をある場所に送信すると、送信先に同じ内容の書類が転送されることになる。このとき、当然のことながら送信元にはオリジナルの書類が残っているが、それとまったく同じ書類が、送信先にも複製されている。「ファックスで送る」という言い方を、私たちは何気なく使うが、じっさいに相手先に送るのはオリジナルの書類ではなく、コピーされた書類のほうである。オリジナルとその複製品という違いはあるものの、その内容がまったく同じだったときに、私たちにとってその書類がオリジナルであるかどうかという判断は、いったいどれほどの意味をもつことになるのだろうか。

 書類はあくまで紙に書かれた文字でしかないが、私たち人間にしても、じつは似たようなことをしていたりする。遠く離れた場所に音声を伝える電話や、姿かたちを映像として記録し、テレビ受像機に映し出したりする技術は、基本的にファクシミリと同じく自分自身の一部を複製するのと変わらない。もっとも、今の科学技術では、複製ができたとしてもその一部だけであるし、そのコピーはオリジナルである私たち生の人間にははるかに及ばない劣悪版だ。たとえば本物のアイドルと、テレビに映っているアイドルを見比べたときに、どちらが本物かわからない、などという事態には到底なりえない。

 だが、もしテレビ受像機の存在などまったく知らないはるか過去の人間が、何の前知識もないままにテレビの映像だけを目にしたとしたら、その人はきっと、自分の目がとらえたものをそのまま理解することになるだろう。つまり、箱の中に小さな人間が入っている、というふうに。そしてこうした事態は、時間軸をそのままシフトしていくことで、私たち自身にも充分に起こりえることとなる。たとえば、はるか未来の科学技術において、まるでその場に存在しているかのように――それこそ視覚や聴覚だけでなく、臭覚や触覚といった感覚まで精密に複製できる技術が確立されたとして、その複製を現在に生きる私たちが目にしたときに、はたしてそれがコピーに過ぎないと判断することができるのだろうか、ということである。

 名前のあきらかでないある男の日録という形で展開していく本書『モレルの発明』は、なんとも不思議な作品だ。故郷のベネズエラで警察に追われる身となった男が、その執拗な追っ手から身をくらますため、とある無人島へとたどり着く。そこはかつて白人が所有していた島で、博物館やプール、礼拝堂といった建物が残されているものの、得体の知れない病気の蔓延によって全員が死亡して以来、誰も近寄らなくなったといういわくつきの場所なのだが、つかまれば死刑になることがわかっていた男に、他の選択肢があるわけではなかった。
 ところが、その無人であるはずの島で男は見知らぬ男女の集団と出くわすことになる。彼らは数年前に流行したような服装をした白人たちで、まるで空中から降って湧いて出たかのように出現したのだ。行き来する船もないはずのこの島に、彼らはどうやって、何のためにやってきたのか? だが、男にとって重要なのは、その団体のひとりの女性、フォスティーヌと呼ばれる若い女性に恋をしてしまったという事実だった。

 追われる身の上である以上、彼らの目につくのは好ましくない。だが、フォスティーヌに惹かれてしまう気持ちを抑えつづけることも難しい――そんな二律背反に悩み苦しむことになる男だったが、やがて奇妙なことに気づくことになる。彼女は男の姿を見ても、男が話しかけても、まるで男がそこに存在しないかのように、完全な無視を決め込むのだ。当初はそれが彼女の性格だと思っていた男だが、どうやらフォスティーヌをふくむ一団全員の目に自分の姿が映っていないように思える。

 季節感を無視した植生、太陽や月が二重に見えるという不可思議な現象、地下室の中に隠されていた、潮力発電機を思わせる施設、そして何日かおきにまったく同じ動作、同じセリフを繰り返している闖入者たち――やがて、博物館に侵入することを決意した男は、そこでモレルという名の男が語る、ある発明のことを聞くことになるのだが、それが本書のタイトルの指し示すものであると同時に、本書のテーマにも大きく関係していることを読者は知ることになる。

 私は本書を不思議な作品だと語ったが、それは本書がミステリーでもあり、SFでもあり、また恋愛小説でもあり、あるいは不条理小説でもあるという、とらえようによってはどのようなジャンルにもなりえるというそのスタイルもさることながら、何より語り手の男が置かれる状況――現実と虚構の境界線のこのうえない曖昧さ、さらにはその境目の意味そのものにまで迫ることになるテーマ性によるものでもある。そして境界線の曖昧さ、という意味合いは、人間の生と死の境界線にまでおよんでいくことになる。

 語り手の男が陥った状況は、たとえるなら、古い写真のなかにいる女性に惚れてしまったようなものだと言える。その写真は、たしかに過去にあった事実をコピーしたものであるのかもしれないが、その過去は今という時間のなかでは失われたものであり、彼にその過去を取り戻す手段は無きに等しい。彼にできるのは、ただ写真の女性を眺めることだけ――しかも、その時間もけっして永遠のものではない。ふたりのあいだにあるものは、ありとあらゆるものが異なりすぎている。はたして、そんな奇妙な愛がどのような意想外な結末を迎えることになるのか、というのが本書の読みどころでもあるのだが、そのへんはじっさいに本書を読んでたしかめてもらいたいところだ。

 私たちは日常的に、写真やビデオ映像といったもので自分の一部を切り取り、保存するということを行なっている。もちろん、写真は写真でしかないし、ビデオはビデオでしかなく、そこに写っている人物に感情や意識といったものはない。だが、もしそのときの感情や意識さえも忠実にコピーできるようになったとしたら――さらには、写真やビデオといった媒体から当時の意識を復元するような技術が確立されたとしたら、私たちはある意味で、永遠を手に入れたことになりはしないだろうか。オリジナルである私自身が死んでも、そのコピーが生前の姿そのままに再現される世界――テレビで死んだ俳優が活躍するような映像を見るにつけ、そうしたある種奇妙な世界が現実のものとなっていることを自覚せずにはいられない。そしてそれは、もしかしたら読者にとってもまったくの他人事ではないのかもしれないのだ。(2012.02.14)

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