【新潮社】
『黄金の声の少女』

ジャン=ジャック・シュル著/横川晶子訳 



 たとえば、ある誰かのこと、それも、特別な思い入れのある人物のことを、ありのままに表現したいと思ったとき、その人はどういう手段に訴えればいいのだろう。絵に描く、写真を撮る、伝記を書く――表現形式は無数にあり、そのいずれの形式も、その人物の断片を切り取って提示することはできるが、それはあくまでその人の一部分であって、けっしてその総体ではない。もしその人がまだ存命であれば、直接会ってもらうという方法もありえるが、たとえ生の人物をまのあたりにしたとしても、それが刻々と変化していく時間のほんのわずかな時間を共有するだけであって、その人がそれまで歩んできた経緯や変化といったものまでとらえられるわけではない。そう考えたとき、誰かのことをありのままに表現するというのは、その人の本質をとらえることと同義であると私たちは気づく。だが、そんなことがはたして可能なのだろうか。

 人のもつ本質というのは、けっして一様ではなく、それゆえに、同じ人物を描いたとしても、表現者の意図によってその印象は大きく左右される。たとえば、野口英世という世界的な細菌学者について、子ども向けの伝記ということであれば、その人が成した業績の偉大さ、とくに医学の発展のために命をかけた人物という側面が強調されることになるが、同じ人物のことを扱った渡辺淳一の伝記小説『遠き落日』では、金銭に関する無頓着さや、ともすると極端な方向に走りがちで、およそ人との協調性に欠けるエピソードなど、あくまでひとりの人間としての露悪についても包み隠さず書き綴っていく。そこに表われた野口英世の「本質」の、どちらが真実で、どちらが虚構か、という議論は、あまり意味はない。あえて言うなら、いずれも真実であると同時に、断片でしかない、ということだ。

 人が人のことを表現しようとすれば、どうしてもその人物のあらゆることを網羅しなければならなくなるが、そうしてその人物のことを飾り立てていけばいくほど、彼のもつ本質は装飾で埋め尽くされ、かえって遠ざかってしまう。今回紹介する本書『黄金の声の少女』は、原題が「Ingrid Caven」、つまり、ドイツの歌姫であり俳優でもあったイングリット・カーフェンという人物の物語、ということになるのだが、もし本書の邦題がそのままの直訳であったとしたら、あるいは読者は本書の本質を見誤ることになったかもしれない。というのも、本書はたしかにイングリット・カーフェンという実在の人物のことを書いた作品ではあるが、たんに彼女の伝記であるとか、あるいは彼女の人間としての側面――スターとして造られたものの裏側を暴露するような作品といったものとは、その表現すべき対象が異なっているからである。

 それは、彼女の人生ではなく彼女の歌だ。旋律をともなって形をもつことができる歌のことばなのだ。――(中略)――夢と欲望を語るこの世の言語は、不純で、断片的で、曖昧で、はかないが、その言語を通じてなにかを伝えようとしたこの死にゆく男に応えることができるのは、彼女の歌だけなのだ。

 けっして短くはない本書のおよそ三分の二を占めているのは、イングリットのドラマチックで波乱に満ちた半生だ。第二次世界大戦下のドイツで、海軍将校だった父に呼ばれ、ナチスの兵士たちの前で「きよしのこの夜」を歌った四歳の少女――この極めて劇的で象徴的なプロローグから、重度の皮膚アレルギーに苦しめられた少女時代に音楽の才能に開花し、病を克服したのちにヨーロッパでも有名な映画監督と結婚、そしてパリの劇場での成功を機に、すぐれた歌手として注目を浴び、また女優としてものしあがっていく彼女の半生は、非常にエネルギッシュで、良くも悪くも「絵になる」構図をもったものである。そのいっぽうで、高級ホテルの床に鍋を落としてしまったときのエピソードや麻薬のこと、あるいはお偉方に対するちょっとしたいたずらを仕掛けたりといった、いかにも人間らしい側面、危なっかしさやそそっかしさ、またセンセーショナルな側面についても豊富であり、じっさいに彼女の周囲には、彼女の現夫である著者自身をはじめ、多くの著名人が実名で登場する。

 華やかなスターとしての側面、多彩な人間関係、難病を克服して栄光をつかんだ少女、そして常に孤高で、多くの人を魅了してやまない黄金の歌声とパフォーマンス――くり返すが、イングリットという女性はいくつもの「絵になる」構図に満ちており、そのいずれを中心に据えたとしても、ひとつの物語として充分な魅力を備えている。だが、にもかかわらず、本書はそのいずれの要素も中心に据えて語ることをしない。いや、むしろ積極的にいくつもの軸をつくって、物語にブレを生じさせようという意図さえうかがえるところがある。たとえば、登場人物について固有名詞ではなく抽象名詞を多用するところや、主体となる人物がイングリットだけでなく、その周辺にいる人々へと移っていくという構造、あるいは、何の脈絡もなく行ったり来たりする時間軸――そしてこれらの要素は、読み物としての利点よりは、むしろ悪影響をもたらしかねないものでもある。

 こうした、無駄に読者を混乱させ、難解さやとっつきにくさを増長させるような本書の構造は、それゆえに人間という、けっしてひとつの枠でとらえきれない複雑な存在をまるごと提示しているとも言えるのだが、そうしておきながら、本書は残りの三分の一を使って、これまで築いてきたイングリット像を打ち消すような展開を見せる。つまり、イングリットの元夫である映画監督の死からはじまって、彼の残した紙片を偶然見つけた著者が、そこから本書を書くきっかけを得るというエピソードであるが、彼女の人生を十八の段落で要約したその文の、十四以降が虚構であるという事実とともに、本書はイングリットの伝記というよりは、むしろ著者の創作物としての側面がにわかに強くなってくるのだ。

 イングリットのイングリット個人としてのさまざまな側面を、まるで頭のなかで思いつくままに書き綴ったような本書の三分の二は、それでもなお彼女の半生を書いた伝記として保たれていた。だが、それを打ち消すことで、ある意味彼女の人間としての要素が剥ぎ落された形となった。その結果、彼女を構成する雑多な部分が取り払われ、その代わりに彼女の「本質」、つまりイングリットの「声」が残される――その試みがどこまで成功しているかはともかくとして、ひとりの人間をあるテーマや枠、あるいはある時代の象徴といったものに縛りつけることなく、まさに今そこにあるもの、変化していくものそれ自体としてとらえていこうという意思は読み取ることができる。そしてそういう意味で、本書の邦題に「イングット・カーフェン」ではなく「黄金の声の少女」というタイトルをあてた訳者は正しい。はたして、ひとりの抽象名詞となった少女の黄金の声は、読者の耳にどのように響くことになるのだろうか。(2008.04.13)

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