【文藝春秋】
『数学的にありえない』

アダム・ファウアー著/矢口誠訳 



「北京で蝶々がはばたけば、ニューヨークの天気が変わる」――いわゆるバタフライ効果と呼ばれるものは、単純な法則にしたがっていながら、時の経過とともに予測不可能な複雑な現象を引き起こすというカオス理論を説明する有名な言葉のひとつであるが、このカオス理論は、ある意味でネズミ講やマルチ商法の不可能性を説明する論理とよく似ている。これらの商法にありがちなものとして、「加入者を増やせば増やすほど儲かる」という謳い文句があるが、たとえばある人が三人の加入者を得るという法則をそのままあてはめて計算していくと、十数代目には日本人口を軽く超える加入者が出てしまうことになる。ゆえに、マルチ商法が儲かるというのは、ごく一部の限られた人たちだけのことだと言えるのだが、こうした極小の現象が極大の現象を生むという理論は、たとえば気象学などではじっさいにあてはめることができるそうだ。ゆえに、気象予報士は明日の天気を正確に当てることができても、一週間後の天気を正確に当てるのは至難の業だ、ということになる。だが、それは本当のことなのだろうか。

 アメリカの小さな半導体工場で起きた火事が、ヨーロッパにおけるエレクトロニクス企業の力関係を大きく変化させたり、アメリカで発見された「狂牛病」が、結果として日本のとある牛丼チェーンの牛丼停止騒動を招いたりといった現象は、企業によって確立された世界的生産ネットワークというマクロの視点に立たなければ、その因果関係を突き止めることはできない。バタフライ効果はカオス理論と結びつく現象であるが、もしもっともっと多くの情報と、それを結びつけるあらゆる法則を理解し、処理できたとしたら――つまり、私たちには認識できないよりマクロな視点が得られたとしたら、私たちはあるいは、望むべき未来を手に入れるために、そこから逆算して「いま」何をすればいいのかを把握することができるのではないか。

 もちろん、そんなのはあくまで理論上のものでしかなく、現実には起こりうるあらゆる可能性を処理することなどコンピュータはもちろん、ひとりの人間の脳でも不可能だ。だが、作者が事実上の神である物語上の世界、虚構世界においては可能である。本書『数学的にありえない』は、あたかもバタフライ効果のように、確率的に起こりえない出来事を、小さな要素から連鎖的に引き起こして未来をコントロールするというSFチックな能力をめぐる物語であるが、本書の最大の特長は、このあまりに最強すぎて、物語世界においてはけっして読者にリアルなものだと思わせられない要素――偶然の連続を故意に引き起こし、数々の危機を脱するという物語の展開を、確率論や量子物理学、ユング心理学、あるいは素粒子の最新理論といった現実世界の知識、それも、圧倒的な量の知識を怒涛のごとく提示していくことで、あらゆる「数学的にありえない」出来事を、ひとつの必然、大きな物語を結びつけるための要素として読者に納得させることに成功した点にこそある。

 本書のなかで起きていることは、けっきょくのところさまざまな伏線をあちこちにちりばめておいて、その伏線を次々と回収していくというもので、たとえばミステリーなどの虚構世界においてはけっして目新しいものではない。ひとつの大きな物語を完結させるために、作者は数々の登場人物を用意し、彼らをストーリーのなかに投入して動かしていく。ただし、虚構世界とはいえ、つじつまの合わないことを作中人物にさせることはできない。登場人物たちは、あたかも現実の生きた人間であるかのごとく行動するし、私たち読者は物語世界を私たちの世界の常識と結びつけて読み進めていく。

 たとえば、物語はふたつの「数学的にありえない」出来事から始まる。ギャンブルでエースのフォーカードを揃えたのに、相手がストレートフラッシュだったために賭けに負け、莫大な借金を抱えてしまった元大学講師ディヴィッド・ケインと、北朝鮮との裏取引において、たまたま手渡したディスクにキズがついていたために交渉が決裂、立場的にも追いつめられてしまったCIA工作員ナヴァ・ヴァナー ――私たち読者は、この時点では彼らのことを特別な不運に巻き込まれた人物だと思い込み、その思い込みをかかえて物語を読み進めていく。なぜなら、それが私たちに考えられる、もっとも合理的な説明だからだ。

 だが、物語はそこから、アメリカの国家安全保障局「科学技術研究所」において、ある謎の研究をつづけている科学者の存在を匂わせつつ、尻に火のついたふたりの登場人物を両輪にして、まさに息もつかせぬ展開へと読者を巻き込んでいく。こうした物語のテンポの早さ、あるいはとにかく専門知識を読者の前にドカンと提示して、無理やりに物語を牽引していくというジェットコースターのような展開は、たとえばダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』を髣髴とさせるものがある。こうした展開上のテンポのよさも、良くも悪くも読者を物語上の伏線から目をそらすのに効果を発揮しているのだが、本書が見事なのは、物語上にさまざまな伏線を張り巡らせておきながら、ある時点までその伏線を伏線として読者に気づかせない技量にこそある。

 では、その「ある時点」とはどこか? 言うまでもなく、ケインが「能力」に目覚める時点だ。たまたま放り投げたトランクが車の爆発で吹き飛ばされ、それが建物の非常はしごに命中して道をつくる、あるいは、ばらまいたポテトチップスに群がった鳥のうちの一羽が、追跡していたヘリコプターのローターに巻き込まれて運転不能になる――迫り来る追っ手を振り切るためにケインが次々と示す能力は、物語世界のなかではあまりに都合が良すぎて誰も手を出さないたぐいのものばかりである。だが同時に、その力は否が応でも読者の興味を惹かずにはいられない。そしてそのとき、読者ははじめて、それまでうやむやに流していたこれまでの展開を振り返ることになる。無限に枝分かれする未来のなかから、自分の望む結果を生み出す未来を選び出す能力――はたして、そのどこまでが「偶然」で片づけられるものなのか。あるいは、何者かの選択の結果だったのか? だが、フォーカードにストレートフラッシュで負けたり、ディスクにキズがついてファイルが読めなくなる確率の低さ、そしてその「数学的にありえない」偶然がともに起こる確率を考えれば、答えは自明だ。

 かくして、物語は「数学的にありえない」偶然からはじまり、同じく「数学的にありえない」偶然によって幕を閉じる。物語の過程で、読者はそれまで知らなかった伏線に次々と気づき、その伏線がすべて望むべき形で収束していくことを知る。見事な作品であることに間違いはない。作品を構築するにあたって、作者が当然考えるべきストーリーの流れそのものを、作中の能力として昇華させてしまう、その発想と、それを実現させた「想う」力には。

 最後にひとつだけ、身近なエピソードを。私は本書を買うか、あるいは図書館から借りるかをずいぶん前から悩んでいたが、結果として「図書館で借りる」ほうを選んだ。本書は予約数が多く、ネットにおいてもおおむね好評の作品だったがゆえに、必要であれば買うことに躊躇はしないのだが、その後ネットの友人が企画してくれた古書店巡りのなかで、行く先々の古本屋の棚に本書が並んでいるのを見たとき、なぜか自分の選択は間違いではなかったという漠然とした安堵があり、ここでも買うことはしなかった。やがてリクエストしていた本書が届き、読み終えた私はそのとき、『ダ・ヴィンチ・コード』との類似性を真っ先に感じたのだが、あるいは私のなかの未知の力が、時間を超えて過去の私に待ったをかけたのかもしれない、と考えるのは、あまりに本書に影響されすぎているだろうか。(2007.11.08)

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