【ダイヤモンド社】
『いまから ここから』

相田みつを著 



 相田みつをは、おそらく詩とトイレを結びつけた、ただひとりの詩人である。じっさい、著者はトイレの日めくりカレンダー用の詩集というアイディアを発案しているし、この書評をお読みの方で、著者の作品とトイレで出会った、という方もきっといらっしゃることだろう。トイレの個室というのは、忙しい現代人が唯一、自分ひとりになることのできる場所、言ってみれば、自分がもっとも無防備になり、ありのままの自分をさらけだしてしまう場所でもある。そしてそんな無防備な心に、相田みつをの素朴な詩は、まさにストレートにしみこんでくる力をもっている。

 かたくなな心のままでは、どんな人の言葉も届かない。著者はそのことを、誰よりもよくわかっていたに違いない。本書『いまから ここから』は、そんな相田みつをの詩集のひとつであるが、著者の詩の大きな特長である、毛筆の文体で書かれた詩の数々は、詩というよりは、まるで書道の作品のような独特の雰囲気をもっている。

 まだまだダメという自己否定
 これでいいという自己肯定
 両方必要だね

 著者の詩に共通するものがあるとすれば、それは極端に走らないというメッセージ性だと言える。必要以上に頑張らない姿勢、必要以上に自分の感情を押さえつけようとしない姿勢、必要以上に何かに固執しない姿勢――それはけっきょくのところ、ありのままの自分というものを見つめなおす、ということへとつながっていく。なぜなら、まぎれもない自分自身を知る機会がなければ、自分がどれだけ無理をしているのか、自分の感情がどれほど激しく揺さぶられているのかがわからなくなるからである。

 人として生きていくのに本当に必要なものは、じつは私たちが思っているほど多くはない。だが、ときに私たちは必要以上のものを求めずにはいられない。それは、あるいは未来に対する漠然とした不安であったり、何かを手に入れたいという欲望の強さであったりするが、けっきょくのところその根本にあるのは、人としての心の弱さである。そしてその弱さが、私たちの目をくもらせ、本来見えるはずのものを隠してしまうことになる。

 まぎれもない自分を知るというのは、自分の人としての弱さを知るということでもある。人として失敗することはあっても、人として間違えることなく生きていきたい――だが、それでも私たちはしばしば道を誤ってしまうことがある。そしてそれは、たいてい自分を見失ってしまったときに起こる。本書を読んでいてひとつ感じたのは、著者もまた毛筆の詩を書くという行為をつうじて、ありのままの自分の姿を表現しようとしてきたのではないか、ということである。

 筆を持つと
 自分のこころの貧しさがよくわかる
 どうにもならないこころの貧しさが
 骨身にしみてよくわかる

 本書を監修した相田一人は、著者の息子であるが、本書には著者の第一回個展の作品から、著者が最後に書いた詩までが収められており、本書をつうじて著者の詩人としての仕事の内容を追うことができる構成になっている、と語っている。それは言いかえるなら、著者がありのままの自分をとらえようとした心の遍歴を追う、ということでもある。そういう意味で、本書に収められた詩のなかに、仏にかんするものが混じっているのは興味深い。これは、著者が一時期、仏の教えを自身の心の拠り所にしようとした心の動きをとらえたものだと言えるが、なにより重要なのは、著者のそうした、何かにすがりたいという心の弱さを、なんのてらいもなく自身の作品のなかに表現していこうとする、その姿勢にこそある。

 自分の弱さや醜さをそのまま認めつつ、なおかつさらけだしていく、というのは、簡単そうでじつは非常に難しいことだ。それが、自分を表現することにプライドをもつ芸術家であるなら、なおさらのことである。そんなふうに思ったとき、相田みつをの作品が、なぜトイレというもっとも俗な場所と結びつくことになったのか、そしてなぜ今もなお多くの人の支持を受けているのか、その一端が見えてきたように思う。ともすると、自分の我を通そうと躍起になる人たちが、著者の詩を読んでハッと立ち止まることができるのは、何より著者の作品そのものが、無理に我を通そうとしない、言ってみれば自然体で書かれたものであるからに他ならない。

 人間だから、迷う。人間だから、悩む。どうしてこんなつらいことが起こるのか、という苦しみ――だが、そうした負の感情にとらわれてしまうと、人は自分を見失ってしまう。相田みつをの言葉には、そうした感情をやんわりと受け入れて、そのたびに「いまから ここから」新たに歩き出していくための力が、たしかに宿っている。(2007.01.18)

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