【河出書房新社】
『想像ラジオ』

いとうせいこう著 



 小説はしょせんつくりものでしかない、という意見がある。まったくもってその通りだと私も思う。否定する要素はひとつもない。だが、つくりものだから小説を読むことに価値がない、という意見にはどうしたって同意することができない。なぜならそれは、人間の想像するという力を根底から否定するものであるからだ。

 想像力とは、その人の世界を広げる能力でもある。逆に言えば、想像に拠らない私たちの認識の力――自分の五官によってのみ体感される世界の範囲は、ものすごく限定された、貧弱なものでしかない。自身の肉体というちっぽけな殻に囚われた私たちに経験できる事柄など、たかが知れている。もちろん、直接的な経験そのものを否定する気はないが、自分の目で直接見たもの、聞いたものだけが唯一の真実だというのであれば、たとえば自分以外の人間、とくに、自分が大切に思っている人たちが何を考えているか、どんなことを感じとっているかといちいち思い悩んだりすること自体もまた、何の意味もないということになってしまう。なぜなら、自分の五官で感じたものだけがすべてだというのであれば、自分ではない他人の考えや思いなどけっして理解することはできない、ということになってしまうからだ。

 人は、ひとりで生きていくにはあまりにも脆い生き物だ。だが、他ならぬ自分という肉体に閉じ込められた私たちの認識は、本質的には孤独のなかから抜け出すことはできない。そんなふうに考えたとき、私は、人間の想像力というのは、なによりその絶対的な孤独を癒すためにこそ発達したものではないかと思うことがある。とくに本書『想像ラジオ』を読んだときに、その思いをいっそう強くする。

 作家っていうのは、俺よくわかんないけど、心の中で聴いた声が文になって漏れてくるような人なんじゃないのかと思うんですよ。――(中略)――しかも確かにそれが亡くなった人の一番言いたいことかもしれないと、生きている人が思うようなコトバをSさんは、なんていうか耳を澄まして聴こうとしていて、でもまったく聴けないでいるってことじゃないか。
 ナオ君、その耳を澄ます行為は禁止出来ないよ」

 本書の構造は大きくふたつに分類される。ひとつは、DJアークなる人物によって放送されているという体裁の「想像ラジオ」の内容であり、もうひとつは作家であるSの一人称によって語られる内容である。DJアークこと芥川冬助は、なぜか高い杉の木の枝にいて、放送施設もないはずなのになぜかDJを名乗ってラジオ放送をつづけている。その電波をキャッチするのに必要なのは、ラジオ機器ではなく「想像力」だと語る彼は、リアルな視点から見れば限りなく妄想に近いようなことをやっているにすぎないのだが、なぜか彼の放送は聴こえる人には届いているらしく、リスナーから電話やメールが来ているふうでもある。

 いっぽうのSの視点からは、きわめて現実に近い世界が語られる。それは東日本大震災があってから一年ほど経った頃を舞台としており、彼はその震災の被災者援助のボランティアのひとりとして、福島から東京に帰る車のなかにいる。そして彼は、その活動のなかで「ある樹上の人」の噂を聞いている。はっきりとは書かれていないが、どうやらその「ある樹上の人」とは、あの震災の大津波に巻き込まれて、杉の木の上にひっかかったままになっている死体のことらしいと想像できるのだが、噂というのは、その樹上の死体の声が聞こえてくるというものであるらしい。

 言うまでもなく私は生きている人間として、生きている人間の側にいる。作家Sもまた私と同じ側にいる。そして本書を読み進めていくとしだいに見えてくるのだが、DJアークの「想像ラジオ」は、どうやら震災で亡くなった人たちによって成り立っているラジオ番組であり、私たち生者には手の届かない、しかし完全な死者の世界でもない領域での出来事だということである。つまり「想像ラジオ」とは、東日本大震災で亡くなった「ある樹上の人」というネタを着眼点に、震災後も生きている作家としての想像力によって生み出されたフィクションだと言える。

 ある小説について書評を書くことに、本書ほどその取り扱いが難しいと感じるものはないと実感する。その要因は言うまでもなく、本書が東日本大震災をテーマに真っ向から挑戦した小説であり、そのテーマはまた、小説のネタとするにはあまりにも私たち日本人の生々しいリアルと直結するものでもあるからだ。死者たちによって成立する「想像ラジオ」、そのトークは妙に軽妙で、まるで生きている人たちであるかのようだ。だがよく考えてみれば、それはごくあたり前のことである。私たちは生者であり、私たちの想像力は、あくまで生きている人間の領域のものでしかない。作家Sに「想像ラジオ」の声が聴こえないように、震災で亡くなった人の声を、私たちは知ることはできない。

 物語が進むにつれて、DJアークの属する死者の世界は、しだいにそのネットワークを密なものにしていく。それまでは一方的なおしゃべりにすぎなかったものが、いつのまにかリスナーたちが現地中継をリアルタイムで行なったり、はては何人もの人たちによる多数同時中継システムで、あたかも同じ場所で集団トークしているかのような芸当が可能になったりする。だが、それでも彼らの声はあくまで彼らの世界にとどまっていて、私たち生者の世界には届かない。いや、厳密には生者のなかにも幾人かはその声が届いているようではあるが、彼らにそれを確認するすべはない。それはまるで、私たち生者が死者の声を聴くことができないのと同じようですらある。つまり、DJアークたちの世界においても、私たちの世界と同じことが起こっているということである。彼が試しにはじめてみた「想像ラジオが聴こえないのはこんな人だ」コーナーが、すぐに休止状態になったのも当然である。なぜなら答えはたったひとつ、「想像ラジオが聴こえないのは生きている人」であるからだ。

 震災で死んでしまった人と、生き延びてしまった人――彼らは同じような体験をしながらも、生死という厳格な境界線によって分かたれてしまった。それをそのまま仕方のないこととして受け入れていいのか、受け入れるべきなのか、という命題が、本書のなかにはある。そして、その境界線を突破する可能性をもつものとして本書が提示するものこそ、人のもつ想像力である。その想像力は、生者のものだけでも、死者のものだけでも成立しない。両方そろってこその「想像ラジオ」なのだ。

「亡くなった人はこの世にいない。すぐに忘れて自分の人生を生きるべきだ。まったくそうだ。いつまでもとらわれていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。でも、本当にそれだけが正しい道だろうか。亡くなった人の声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者と共に」

 東日本大震災に遭った日、私は関東の物流会社に出向中の身であり、幸いなことに建物の倒壊といった不幸には遭わずに済んだ。その後、交通機関のマヒで帰るに帰れなくなった私は、とりあえず近くの会社の同僚の家に身を寄せることになったが、そこに映っていたニュースで、東北地方でとんでもない災害が起こっていることを知った。おそらく私には、その震災で大変な目にあった被災者たちの気持ちを理解することはできないし、まして死者たちの思いなどなおのことである。だが、そこで考えること、想像することをやめることなく、あえてその先を書こうと一歩踏み出した人も、たしかに存在する。

 生き残った者のひとりとして、死者の声を想像するというのは、ひとつの鎮魂の形だ。少なくとも本書には、そうした思いがたしかにある。そしてその鎮魂が、生者と死者とのあいだに引かれた圧倒的な境界をもし一瞬でも超えることがあるとすれば、私たちはあるいはもう少し「想像力」というものの価値をあらためることができるのではないだろうか。(2013.10.12)

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