【早川書房】
『イリーガル・エイリアン』

ロバート・J・ソウヤー著/内田昌之訳 



 以前紹介した平谷美樹の『エリ・エリ』の書評で、神の実存と宇宙への進出とは、じつはよく結びつきやすいテーマであると述べた。もし、神という概念で語られる「完全なるもの」が本当に存在し、それが人間をはじめとするすべての法則をさだめたのだとするなら、たとえ今は地球上からいなくなってしまったのだとしても、この広大な宇宙のどこかに神は必ず実在するはずだ、という考えは、進化論によって人間が「神の身姿を模倣したもの」という神学論的概念が根底から覆されようとしている宗教家たちにとって、ひとつの大きな希望であることは間違いない。他のキリスト教国ほど信仰という点に熱心ではない私をふくむ日本人にとって、そのあたりの心理を想像するのは容易ではないのだが、たとえば今私たちが生きている地球がさまざまな問題をかかえており、人類の宇宙進出が、そうした深刻な問題を解決するための、ひとつの突破口になるのではないか、と希望をいだくのと似たような心情ではないだろうか。

 ところで、もしこの広大な宇宙に地球が誕生し、そこで奇蹟ともいうべき条件がととのって生物が発生し、そこから知的生命体である人間が繁栄しているのであれば、たとえば似たような条件さえ整えば、地球以外の星でも同じようなことが起こるのではないか、という理論は、どこまで現実的だろうか。SF、とくに「ハードSF」のジャンルにおける、いわゆる「宇宙人」と呼ばれる知的生命体は、たとえばスタニスワフ・レムの『ソラリス』のように、私たちの想像をはるかに超えた、姿かたちはもちろん、その思考や精神でさえも不可解極まりない、ともすると怪奇物を思わせるような存在として書かれていたりするのだが、本書『イリーガル・エイリアン』に登場する異星人――地球から四光年先のアルファケンタウリ星系から地球に訪れたトソク族は、その外見こそ人間離れしたものであるが人間と同じ脊椎動物であり、ハードSFの分野からすれば充分に「人間っぽい」存在として描かれている。物語は、このはるか彼方の星からの訪問者である異星人とのファーストコンタクトからはじまって、彼らの高度な知能と科学技術によって人類との意思疎通が確立してからは、急速にお互いの関係が友好的なものへと向かっていくのだが、ひとつの殺人事件がその流れを大きく変えていくことになる。

 片足が切断され、胸を大きく切り裂かれ、さらに肉体の一部が紛失しているという、残酷極まりない人間の死体――カリフォルニア州警察の捜査によって浮かび上がってきたのは、ひとりのトソク族、ハスクと名乗る異星人だった。

「――黙秘権を行使する場合、あなたが口にすることはすべて、法廷であなたに不利な証拠として使われる可能性があります。あなたには――」
「エイリアンを逮捕できるわけがないだろう!」

 地球にはじめて訪れた異星人に対して、あくまでカリフォルニア州の法律を適用し、しかるべき場所で裁こうとする様子は、相手が相手なだけにかなりシュールな構造であるが、じつはこうした、SFというにはちょっと視点のズレた滑稽さこそが、本書の真骨頂である。本来ならもっと地球的規模な問題であるにもかかわらず、アメリカ大統領をはじめとする地位のある人物たちは、次の選挙といった瑣末なことにとらわれているし、国どおしの牽制も相変わらずである。異星人を逮捕したカリフォルニア州警察の態度はその典型ともいうべき、融通の利かないお役所仕事を思わせるものであるが、そうした欠点は、異星人という前代未聞の存在を前にすると、たちまちはっきりと見えてくるものでもある。トソク族とのファーストコンタクトを受け持った、大統領の科学顧問であるフランシス・ノビリオは、保身ゆえに弱腰な態度の大統領に代わり、なんとかこの異星人ハスクの無罪を勝ちとるため、弁護士であるデイル・ライスとともに長い裁判を戦うことになる。

 そう、本書は純粋なSFというよりも、むしろ異星人――というよりも、人間とは異なる世界にすむ知的生命体――を相手に殺人罪をめぐって裁判をすることになったらどうなるか、という著者の知的好奇心ゆえに生み出された作品、ハーパー・リーの『アラバマ物語』のエイリアン版だと言うことができる。そもそも現実問題として、異星人というものが本当に存在するかもわからないのに、異星人の裁判を考えるということ自体がある意味ユニークなことではあるが、こうした奇想天外な発想を、あくまで現実のものとして大真面目に考察し、こまかい部分の設定を決め、できるかぎりリアリティのある物語として完成させるためにさまざまな工夫をこらし、情報を提示していくというやり方は、同著者の『ターミナル・エクスペリメント』でも見られるものだ。

 じっさい、本書の大半は裁判の様子を描くことに費やされているし、そういう意味では法廷小説と言ってもいい側面もあるのだが、その過程のなかで、トソク族の身体構造や精神構造、食生活、タブー、生理現象といった特徴が少しずつ明らかになっていく。そして、この何もかもが異例づくしの裁判にかかわる人々が、何を考え、どのような言動をとっていくのかについても著者はけっして手を抜くことはない。陪審制度や法廷での弁護のテクニックといった専門知識はもちろんのこと、たとえば異星人が有罪となれば死刑は確実であり、そうなれば当然、苦しみの少ない方法で異星人を殺す方法を考えなくてはならない、という問題にまで目を向けているのは、著者くらいのものだろう。

 はたして、ハスクは本当に殺人を犯したのか。そうであるとするなら、その動機は何なのか。それとも、何か別の理由があるのか? そもそも異星人の考えることなど人間の想像の枠外のことではあるのだが、ハスクにとって不利な情報が検事側によって積み重ねられていくなか、弁護側に勝算はあるのか? 本書の最大の焦点が裁判の結果であるということは間違いのない事実であるが、この物語をつうじて見えてくる真のテーマとは、アメリカの裁判を特徴づける陪審制度――ときに法の力をも超える陪審員の決定が、人間としてどのような立場のものにあるのか、という点だと言える。「陪審は共同体の良心」であるという理想論、そしてこの理想が、あくまで理想論でしかないという現実と、その現実を見据えたうえで、それでもなおその理想を信じつづけることができるかどうか――それは、人類の宇宙への純粋な憧れや、神の実在を信じつづける人々の心情にもつうじるところがある。そして、それはもしかしたら、地球以外の星々に生きているかもしれないエイリアンたちにもつうじるものかもしれないのだ。

 ハードSFの見地からすれば、それはあまりにも人間的な理想論だろうか。しかし、著者がその作品をとおして示しつづける、たとえそれがどんなに荒唐無稽なテーマであっても、大真面目にその可能性を現実世界にあてはめて物語を創造していく様子は、理想を求めて信念をつらぬいていく人間の生き様のようにも私には見える。現代版『アラバマ物語』がどのような結末を用意しているのか、ぜひともたしかめてほしい。(2006.12.25)

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