【マガジンハウス】
『世界から猫が消えたなら』

川村元気著 



 私たちがふだん目にしたり耳に聞いたりするものは、五官をつうじて拾った情報を脳が変換した結果として認識されるものであって、ありのままの世界の有り様をとらえているわけではない。たとえば、純粋な自分の声――他人が聞く自分の声を、自分自身では聞くことができないのだが、これは自分の発する声が、空気振動だけでなく頭蓋骨の振動を加えたものとして聴覚がとらえているからに他ならない。頭蓋骨の振動は、相手の耳には届かない。自分が聞く自分の声というのは、私という主観だけがとらえる世界の一部なのだ。

 そんなふうに考えると、私たちはそれぞれの主観によって世界をとらえて生きていくしかない生き物だということになるのだが、脳の障害などで五感の変換に大きな異常をきたすような事態にならないかぎり、ふだんの生活においてさほど困るようなことはない。せいぜいが人と人との関係において、それぞれの主観がとらえるささやかな世界の差異にどう折り合いをつけていくのかに一喜一憂する程度のものであるし、それもまた人生の一部と言うことができる。ただひとつ、自分の主観と純粋な世界との決定的な差異を感じずにはいられない瞬間があるとすれば、それは自分が死を迎えるときだ。

 自分の主観においては、自身の死はそのまま世界の死でもある。だが同時に私たちは、たとえ自分が死んでも世界は存続しつづけることを理解しているし、私が死んだところで世界は揺るがないこともわかっている。もちろん、かといって世界とともに無理心中するようなことは、もっとありえない夢物語だ。今回紹介する本書『世界から猫が消えたなら』における、およそリアルとは程遠い物語は、ある意味「世界と無理心中する」という夢物語と通じるものがある。

「この世界からひとつだけ何かを消す。その代わりにあなたは1日の命を得ることができるんです」

 末期の脳腫瘍と診断され、余命いくばくもないと唐突に宣告された30歳の「僕」。そんな彼の前にこれまた唐突に登場した自分そっくりの、でもどこか陽気で軽薄な感じの男は、自分は悪魔であると名乗り、上述のような「取引」を申し出る。この世から消えてしまうものは、悪魔が任意に決定するという約束事はあるものの、明日をもしれない命の者が、その寿命を1日のばす代償として、その「取引」ははたして軽いのか重いのか――そうしたテーマがほの見える本書であるが、あくまで本という形態から本書を読み始めてまず気がつくのは、物語の流れにおける唐突さ、およそその物語内に広がっているはずの世界の「匂い」とも言うべきものの希薄さである。

 何かこの世ならざる不思議な出来事が生じるさい、そこには必ず私たちのよく知る「現実」とそうでない出来事との境界を感じずにはいられない。正常と異常の境目、現実と虚構の境目、現実世界と異世界との境目――それこそ、それぞれの主観の産物でしかないと言おうと思えば言えるのかもしれないが、それでも私たちは何か尋常でない出来事に遭遇したさいに、まずはその差異に驚き、戸惑うことになる。そうした人間らしい反応が、本書にはほとんど感じられない。あるいは書かれていても、どこか説明文めいたもののように見える。登場する悪魔の軽いノリのせいもあるのかもしれないが、その最大の要因として考えられるのは、本書がもともと携帯アプリ「LINE」のメッセージ機能を用いて投稿された作品だという点だ。

 「LINE」の売りは、違うキャリア同士であっても無料で音声通信やメールが利用できるという点であり、それはつまり、本書が携帯電話の画面を前提に書かれた物語であるということを意味する。本とは違い、携帯電話の画面には一度に表示する文字数に限りがある。これは一時期市場を賑わわせた「ケータイ小説」についても言えることだが、そうである以上、そこで展開される物語は、物語の筋書きや出来事、あるいは登場人物が何を考えているかといった情報を、できるだけ簡易な言葉に変換する必要が出てくる。これはあくまで予測でしかないのだが、携帯端末をもちいて読む本書と、本という形態で読む本書とでは、その流れるスピードも異なってくるはずである。「LINE」投稿上においては適切な長さだったかもしれない文章も、そのまま本に変換された瞬間に、どこか物足りなさを覚えてしまう。それが私の感じた物語に対する唐突さや、世界観の希薄さにつながっているのであれば、一応の説明はつく。

 本書のなかで、語り手は寿命の1日延長を願い、そのたびに「電話」「映画」「時計」といった要素が世界から消えていく。この書評の枕でも触れたように、死がそのまま主観世界の消滅であるとすれば、およそこの世のあらゆるものが消えるまで「取引」を続けていってもなんら問題はない。だが語り手は、それらのものがなくなることで、かえってそれらがこの世に存在することの意味を見出していくことになる。死んだ語り手の母が言うように、「何かを得るためには、何かを失わなくては」ならない。だがそれは逆に、「何かを失ったように見えるが、別のところで何かを得ている」ということにもつながる。たとえ、その得たものが、自身の主観世界においては目に見えず、手にとることもできなかったとしても。

 このような一種の「等価交換」は、本書自身についても当てはめることができる。この物語は、あくまで携帯アプリを前提として書かれたものだ。アイディアとしての「物語」は同じであっても、そこからどのような表現形式を選択するかによって、何かを取捨選択する必要が生じてくる。本書はまず、携帯アプリ上に投稿された。その時点で、本書はそれに見合うような形にカスタマイズされたということでもある。もしこの「物語」が、本という形態に合わせてあらためて書かれたものであったなら、おそらくさほどの違和感を覚えることはなかっただろう。だが、携帯アプリ上のそれをそのまま本という形に掲載したがゆえに、基本となる「物語」からカスタマイズされたもの――その過程で失われたものや、付け加えられたものが、必要以上に目立つ結果となった。そういう意味において、本書はひとつの指針として機能したと言うことができそうだ。

 私は物語というものが好きな人間であるが、もしその物語の内容だけを知りたい、ということであれば、まだるっこしい描写をはぶき、要点だけをまとめたあらすじを読めばいい。だが、そのことによって時間とか手間とかいったものを節約できたとしても、その物語の本質的な「何か」は、やはり手に入らないのだろうと思う。私の主観においてとらえられた本書は、要するにそういうことだ。できることなら、本という形態ではなく、本来の携帯アプリという形で本書を読んでみたかったと思わずにはいられない。(2013.02.06)

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