【新潮社】
『奇跡も語る者がいなければ』

ジョン・マグレガー著/真野泰訳 



 奇跡も語る者がいなければ、どうしてそれを奇跡と呼ぶことができるだろう

 たとえば、私という人間が今、ここに存在しているという事実。それは、私にとってはあまりにもあたり前のことすぎて、あらためてかえりみることさえない事柄のひとつでしかないのだが、そもそも私がこの世に生まれてきたのは、私の父親と母親とが出会い、愛し合うというイベントがあったからであり、その事実だけを考えてみても、私がここにいるという事実がいかに奇跡的な確率で生じたものであるのかがわかることと思う。もし、私の両親が出会うことがなければ、あるいは出会っても、愛し合うようなことにならなければ、さらに過去をさかのぼっていけば、そもそも両親のどちらかがこの世に生まれてこなかった可能性もありえないわけではなく、というよりも、本来はそちらの可能性のほうが圧倒的に高かったはずであり、その天文学的に小さくなっていく確率を見ていくと、それこそ無数にあったはずの選択肢のなかからたったひとつだけが選ばれ、その結果として私という存在が今、ここに生じていること自体が、まさに奇跡以外の何ものでもない、ということになる。

 だが、私たちはふだん、そうした奇跡――あたりまえであることの奇跡について、思いをめぐらせることはない。ミツバチが正確な六角形の巣をつくること、コウモリが暗闇のなか、障害物にぶつかることなく飛ぶことができること、空が青く、雲が雨をもたらすということ――世の中のことに目を向ければ、そこには奇跡ともいうべき素晴らしいことがあまりにも多く溢れかえっているにもかかわらず、それらの事実は私たちのあたり前の日常のなかに、容易に埋没してしまう。まるで、私たちの目が節穴にでもなってしまったかのように。

 本書『奇跡も語る者がいなければ』は、まさにそのタイトルが示唆するとおり、誰にも知られることなく密やかにおこったある奇跡のことを描いた作品である。それは、たしかに奇跡に違いない出来事ではあるのだが、見方を変えればただの偶然でしかないようなことでもあり、読者のなかには、あるいは最後まで読んでもそれが奇跡であると気づかれないまま終わってしまうという可能性さえある。誰にも気づかれない奇跡、それは奇跡でもなんでもなく、ただの日常でしかない。だが、それは逆に、私たちがあたり前のように過ごしている日常のなかに、奇跡のような出来事がいくらでも隠されている、ということでもある。

 本書の著者は、そうした奇跡の本質についてもっとも意識的であり、それゆえに本書に描かれているのは、その奇跡がおこったある夏の終わりの一日、その奇跡がおこったある通りに住む人々の日常生活である。たとえば、17番地に住む騒々しい若者たちは、やはり騒々しく最後の夏休みを過ごしており、22番地に住む眼鏡の女の子は、その日のうちにその家を出て行かなければならず、しかしその準備がなかなか進まない。18番地に住むドライアイの男の子は、その通りに住む人々のことを熱心に写真に収めていて、22番地の女の子にひそかな恋心をいだいている。20番地に住む老人は、自身が犯されているかもしれない病気のことをなかなか妻に言い出すことができず、19番地に住む一家の双子は、その日も通りに出て、クリケット遊びに興じている。自身が住む通りのスケッチをしている青年や、洗車に精を出す男、スニーカーの汚れがなかなか落ちずにいらついている男の子、両手にひどい火傷を負った男と、天使が見えるというその小さな娘など、数多く登場するその通りの住人たちは、大半が名前さえも明かされることなく、ただ「どこどこの番地に住む人」という呼び名のみ与えられ、そんな人々の、ごく何気ないその日の日常が、まるで次々とスポットライトをあてていくがごとく描かれていく。

 そして、それとは別のもうひとつの物語として、かつて22番地に住んでいた眼鏡の女の子の一人称で語られる、しかし時期はその事件がおきた三年後の日常がある。この、事件を過去の視点から語る―― 一方の物語を「現在」とするなら、いわば「未来」に属する――彼女の物語によって、かつてその通りで何か重大な事件がおきたということだけがわかる構成になっており、しかし彼女自身も現在、それまでの日常が大きく覆されるようなある問題をかかえており、そのことにどう対処していいのか迷っている最中である。

 はたして、その夏の最後の日に何がおこったのか、そしてタイトルが示唆する、語る者のいない「奇跡」とは何なのか――もちろん、物語は最終的にはその一点に向かって収束していくことになるのだが、ここで重要なのは、上述したとおり、それは誰にも気づかれることのなかった奇跡であり、それゆえに、たとえば浅倉卓弥の『四日間の奇蹟』のような、すべての読者にはっきりとわかるような形の奇跡ではない、ということだ。そしてもうひとつ、本書のことを語るうえで重要になってくるのは、この物語を読み通していくことで、私たちは人間の一生――誕生し、成長し、誰かと恋をして結ばれ、子どもを育て、そして年老いて死んでいくという、人間の生涯をひととおりすべて辿っていくことができる、という点である。

 もっとも象徴的なのは、祖母の葬式のために行ったスコットランドで、遠い親戚のひとりと夜をともにした結果、妊娠することになった、かつて22番地に住んでいた眼鏡の女の子の現状であるが、ここで生と死のサイクルの、ひとつのはっきりとした区切りを基点として、19番地に住む一家の、かつて不妊に苦しんだあげく、ようやく双子の兄弟ともうひとりの女の子を授かることができたエピソードや、20番地に住む老夫婦が回想する、戦地から帰ってきた兵士と、彼を待っていた婚約者のエピソード、あるいは愛する妻を亡くし、自身も大きな火傷と心の傷を負った16番地に住む男のエピソードなど、過去からその日という現在へとつながる出来事が、不思議な磁力によって結びついていく。そう、あくまで通りに住む人々の日常を描いたに過ぎない物語は、しかしそこにいたる過程においてはけっして日常でもなんでもなく、それぞれがしかるべき人生を歩んできた結果としてある日常であることを、私たちは物語全体の流れをとおして否応なく認識させられることになるのだ。

 人間が生まれ、そして死んでいくという事実――それは、言われてみればなんてことのない、あたり前のことでしかないのだが、そんなあたり前のことが、あたり前であるがゆえに忘れてしまっている自分たちに気づかされる。その単純なことを、あくまで単純な日常のなかに見出そうとするひとつの意志が、本書のなかにはたしかにある。

 不思議なんだけど、いちばんこたえたのは、自分の身に何が起こるんだろうっていう不安なんかより、――(中略)――死んでも誰にもわからないんだって考えたらね、自分はただの行方不明になるんだって、神隠しみたいに消えちゃうんだって考えたらね、それがいちばんこたえたよ。

 世の中のさまざまなことを収集しようとした、かつて18番地に住んでいたドライアイの男の子が、とりあえずの手始めとしてはじめた、自身の住む通りの人々の写真撮影――それは、その通りに住む日常のことを、できるだけ事細かに描写しようとしている本書の形式にもつながるものである。それは、語っていけば膨大な量になっていき、それでもなお、物事のすべてを表わすには足りない。まさにキリがない作業であるが、そうしたキリのない日常のひとつひとつが、まさに奇跡であることに、少なくともドライアイの少年は気がついていた。だからこそ、本書を読み終えた私は、そのなかで起こった出来事がまぎれもない「奇跡」であることを納得するし、本書自身が、何気ない日常を描くことによってひとつの「奇跡」を表現することに成功した、稀有な作品であることにも、おおいに納得するのである。(2005.10.20)

ホームへ