【新潮社】
『家守綺譚』

梨木香歩著 



 最近、よく「スローライフ」という言葉を耳にする。まだ確たる定義の固まっていない、比較的新しい言葉だと思われるが、少なくとも、戦後日本が社会的価値があると勝手にさだめようとしてきた人生――たとえば大量生産・大量消費のサイクルに組み込まれ、より多くの物質的豊かさを求めるような人生や、とある組織のしくみやルールをよりよいものへと変えていったり、社会の役に立つようなものを作り出すといった、いわば「やりがいのある仕事」のために生きる人生――とはまったく異なる、これまでにない新しい価値観を自らの生活の基盤としていこうとする傾向を象徴するものであることはたしかである。よく考えてみれば、大金を稼いでいろいろなものを手に入れることができる人も、本当に「やりがいのある仕事」を見つけることができる人も社会全体のほんの一握りにすぎず、大部分の人たちは生きていくということに、大なり小なりの満たされない思いを抱えているのが実状である。既存の社会的価値観が、どうあがいても国民全体が享受できるものでない以上、この「スローライフ」という考え方は、ある意味必然的な流れだと言ってもいいだろう。

 私はまだ自分の人生を振りかえるほど年老いているわけでもないが、こんな若輩者の私でも、ときに過去のある場面を懐かしく思い出したりすることがある。それはたいてい、自分がどんなことをしてきたか、というよりは、そのとき何気なく見ていた景色――たとえば、両脇に緑の田んぼが広がる一本道とか、かつてあった家の畑でとれた小ぶりの苺とか、毎年ひそかに楽しみにしていた、自分だけが知っているアケビの実る場所だったりするのだが、最近ふと思うのは、そうした過去の情景をなつかしく思い出すというのは、たんに現状からの逃避というよりは、もっと何か大切なものがそこにあって、今の自分がその何かを忘れつつあるのではないか、ということである。いったい、何を忘れようとしているのかははっきりしない。ただわかるのは、来るべき未来に目を向け、ある目標に向かってがむしゃらに突き進んでいくことだけが、生きることの価値ではないということだ。

 文明の進歩は、瞬時、と見まごうほど迅速に起きるが、実際我々の精神は深いところでそれに付いていっておらぬのではないか。鬼の子や鳶を見て安んずる心性は、未だ私の精神がその領域で遊んでいる証拠であろう。

 本書『家守綺譚』という作品について、何かを語るのはとても難しい。たいして売れているわけでもない、しがない貧乏作家である綿貫征四郎によって記されたもの、という設定で、おもに彼が家守として住んでいる一軒の家でおこった不思議な出来事を、まるで日常の些事を語るかのように綴っていく。極端に言ってしまえば、ただそれだけの話なのである。だが「ただそれだけ」だと思っているのは、おそらく本書の登場人物たちだけであって、数年前に亡くなったはずの、大学時代の友人である高堂があたり前のように掛け軸のなかから出てきたり、河童や竜、小鬼といった妖怪変化が出てきたり、狐や狸、はては植物にいたるまでが、まるで知恵ある者のように人々を化かしたりするような世界は、読者にしてみれば相当に奇妙なものである。

 妖怪や怪奇現象といった非現実的事象が出てくるような物語は、すでに枚挙にいとまがないほど数多く生み出されているが、本書の場合、そうした科学的に説明のつかない出来事が、まるで季節の移り変わりやちょっとした庭の風情、あるいは近所の人々との交流といった、いたって平凡な日常を描くのとまったくの同レベルで扱われていて、かつそうした存在が基本的に登場人物たちの日常を大きく揺さぶるようなことがない、という意味で、たとえば京極夏彦の『豆腐小僧双六道中ふりだし』や、畠中恵の『しゃばけ』といった作品とは、あきらかにその立ち位置を異にしている。そして、そうしたすべてのものを同じ視点でとらえる、という姿勢は、本書の主人公と言ってもいい、綿貫征四郎自身についてさえ徹底している。

 本書の背景は、日本のどこかの田舎町で、時代についてはランプが主流となっていることから、少なくとも現代ではなく、今から何十年か昔――あるいは戦前くらいを想定しているのだろうと想像はできるが、はっきりとした設定はどこにも書かれてはいない。何かを他の何かからはっきりと線引きしてしまうような要素を極力排除しようとする向きさえあるのだが、その線引きの曖昧化は、本書の大きな特長のひとつとなっている。

 たとえば、物語の中心に綿貫征四郎という人物がいて、彼が守を頼まれている、かつて高堂のいた家があり、その周囲に、たとえば四季折々の草花があり、犬のゴローや和尚やダァリヤの君や、隣に住む世話好きのおかみさんといった人たちがいる。この周囲にいるものは、犬でありながら本来の犬としての役割を超えたはたらきをするゴローに代表されるように、私たちが現実の世界でとらわれている常識という線引きほど強いものではなく、それゆえに、河童や人魚、あるいは死んだはずの高堂といったあきらかに現実ではありえない存在もまた、容易にその曖昧な線引きをスッと超えて綿貫の前に姿を見せたりする。そして私たち読者は、本書を読み進めるにつれて、いつしかそうした曖昧さのなかからにじみ出てくる、ある種のなつかしさだけが深く印象づけられていることに気づく。

 鮎が泳ぐ川があり、蝉時雨が降る夏の山があり、アキアカネが飛ぶ秋の空があり、一面を覆うススキの原がある――今のもっと若い人たちについてはわからないが、本書のなかで描かれる豊かな自然は、間違いなく私の心に郷愁をかきたてる。そして、そんな世界のさまざまな不思議をあたり前のものとして受け入れている人々もまた、世界を構成する要素のひとつとして組み込まれている。それは、けっして何かに属するといった関係ではなく、より大きなものに包み込まれているという感覚である。

「スローライフ」と呼ばれるものの概念がどのようなものなのか、私には今ひとつはっきりとわかってはいないが、少なくとも本書に登場する綿貫征四郎は、人の家の守をしているだけで、その家を所有しているわけではないという、なんとも安定しない立場にいるし、友人の高堂にいたっては、生きているのか死んでいるのかさえ曖昧である。だが、そんな曖昧な立場を自分のものとして受け入れている彼らの姿は、既存の価値観にはこだわらない、という意味で、たしかにひとつの「スローライフ」を確立しているといってもいいだろう。(2005.04.22)

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