【集英社】
『翼はいつまでも』

川上健一著 
第17回坪田譲治文学賞受賞作 



 コルネーリア・フンケの『どろぼうの神さま』に登場するスキピオは、一刻も早く大人になりたいと強く願っている少年であったが、そこにあるのは事あるごとに子どもたちに命令するばかりで、その主張や意見に耳を傾けようともせず、時には暴力に訴えてまで子どもたちを服従させようとする、親や教師といった大人たちの、理不尽で納得のいかない態度に対する反発だった。山田詠美の『ぼくは勉強ができない』に登場する時田秀美は、「成績優秀な生徒」「清楚な乙女」「聞き分けの良い生徒」といったありきたりな価値観を拠り所とし、その価値観を一方的に押しつけてくる者たちを挑発せずにはいられない少年であるが、それは自分は自分であって他の何者でもない、という自分の個性を何より大切にしたいと願う強い思いに駆られての行動であった。

 誰もが自由で平等な社会を願っているはずなのに、なぜテストの成績といった一方的な基準で他人との優劣がつけられるのか。争いのない平和の尊さを教えているのに、なぜさまざまな場面で他人と競争することを強いられるのか。その国に生きる民衆ひとりひとりが中心である民主主義国家に生きているはずなのに、なぜ大人たちは私たちの話に真摯に耳を傾けてくれないのか――身の周りで起こるいろいろな不条理や矛盾に対してどうしても折り合いがつけられず、若さゆえに反抗したり強がってみせたりした経験が、おそらく誰もが一度くらいはあるかと思うのだが、本書『翼はいつまでも』を読み終えてあらためて見いだしたのは、そうした押さえがたい衝動の記憶をすっかり忘れてしまい、いつのまにかあれほど嫌っていたはずの大人――打算や妥協を身につけて、なるべく波風を立てないようにする大人の生き方をしてしまっている、自分の姿であった。

 本書に登場する語り手の神山久志は、青森県十和田市の学校に通う中学生。野球部に入ってはいるものの、レギュラーになれずにいつも球拾いばかりさせられているさえない少年であったが、ある日、ラジオのアメリカ軍放送から流れてきたビートルズの曲「プリーズ・プリーズ・ミー」に強い衝撃を受けて以来、その曲を励みにして野球部でレギュラーのポジションを勝ち取り、また学校で禁止されているビートルズを聴いてツイストを踊ろうとみんなに持ちかけたり、先生に自分の意見をしっかりと主張したりといった変化を見せるようになる。失敗しても、格好悪くても、ありのままの自分を隠さずに押し出していこうとする態度は、たしかに神山自身にとって大きな変化だったが、その変化は思いがけず、同じクラスの斉藤多恵の心情にも強く訴えかけるものであった……。

 学業もスポーツも万能で、おまけに美人で学校の男子たちの憧れ的存在である杉本夏子とは対照的に、もの静かで誰とも打ち解けようとせず、何かとクラスの中で浮いた存在でしかなかった斉藤多恵――物語はその後、十和田湖にひとりでキャンプに出かけた神山が、思いがけず近くのホテルでアルバイトをしていた斉藤多恵と出会い、お互いの心が急速に接近していくというある意味典型的な展開を見せることになるが、本書の大きな特長のひとつが、そうしたいかにもありがちな展開さえ払拭してしまう、少年少女の照れくさいほどまっすぐな心の様子を描ききっている点であることは間違いない。

 君みたいに白か黒か、赤か白かでしかものごとをみることができない若い人にとっては、自殺なんて肯定できないよね。だけど大人になると白と黒の間の灰色とか、赤と白を混ぜたピンクでものごとを考えることもできるようになるのよ。

 このセリフは、斉藤多恵がはたらいているホテルに宿泊しているある女性のものであるが、本書のなかではほんのわずかしか登場しないこの新進の女流作家の言葉は、奇しくも本書が描こうとしている若者たちの姿を的確にとらえ、代弁していると言える。白か黒か、良いか悪いか、好きか嫌いか――本書のなかで神山久志や斉藤多恵が抱えている問題や、彼らが引き起こす学校内でのさまざまなやっかいごとは、すべてそのどちらかいっぽうにしか歩み寄れない若者特有の潔癖さ、まっすぐさに端を発するものである。

 野球をとおしての仲間たちとの友情、ひと夏の淡く切ない初恋の思い出、そして別れ――思春期まっさかりの中学生を主人公にした物語としては、怖いくらいに青春小説としての要素を押さえた作品だと言っていいだろう。とくに、これまでただ大人たちの理不尽な仕打ちにうつむいていただけの少年少女が、物語のなかで自分が正しいと信じること、ほんとうにやってみたいと思う心に従い、勇気をもって一歩前に出ることを選び取っていく姿は秀逸だ。大人と子どものはざまにいる、きわめて不安定な体をかかえた中学生たちの、何かを強く思いながらもそのことをうまく言葉に出して表現できないもどかしさ、そしてそのもどかしさをビートルズやピアノや野球といった形で発散させずにはいられない彼らの等身大の姿が、そこにはたしかに溢れている。

 そう、神山も斉藤も、そして本書に登場する多くの中学生たちも、けっしてスマートではないし、また自分のすべてを信じられるほど強いわけではない。とくに、全国でもっとも処女を捨てる場所が十和田湖であることを聞き、うまくいけば自分も女の人とセックスすることができるかもしれないと考えて、本当にひとり十和田湖のキャンプ場に行ってしまう神山の思考ははっきりいって馬鹿以外のなにものでもないのだが、そうした馬鹿げた言動のなかにも、「女の人とセックスして一人前の大人になれれば、あるいは今の大人たちの考えていることを理解できるかもしれない」という、彼なりの真摯な思いがあり、けっしていやらしさとか生々しさを感じさせることがない。青春というと、少年少女の心の移り変わり、あるいは心の成長を描くものが多いなか、著者の作品では、前作『雨鱒の川』もそうだったが、登場人物たちの心は基本的に変化しない。移り変わっていくものよりも、むしろ変わらないものを追いつづけようとする著者の姿勢は、読む者の心に切なさや儚さよりも、むしろ希望を持たせようとしているかのようにも思える。そしてそれは、青春小説のなかではなかなか成功させるのが難しいテーマでもある。

 本書のラストに示されている場面を読むかぎり、そうした「希望」をもたせようという試みは、この上なく成功していると言っていいだろう。そしてそのことによって、本書はきわめて清々しい青春小説として完成した。その醍醐味をぜひとも味わって、そしてかつて自分も体験したはずの青春を、ぜひとも思いおこしてもらいたい。(2005.03.12)

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