【集英社】
『陋巷の狗』

森村南著 
第九回小説すばる新人賞受賞作 



 今の時代に対する底知れぬ閉塞感、次々と打ち崩されていくそれまでの常識、来るべき新時代を予感させる新しい技術と、それに対する期待と不安、そして、移りゆく時代の流れを掴み、甘い汁を啜ろうともくろむ人達と、時流に取り残されていく人達――徳川一族の天下統一から二百六十年を経て迎えた幕末と、敗戦から五十数年を経て迎えた現代は、つくづくよく似ていると思わざるを得ない。マンガで、テレビ番組で、映画で、そして小説で幕末の世を描いた物語が次々と生まれてくる背景には、あるいはこのふたつの時代の類似がもたらしている現象なのかもしれない。

 本書『陋巷の狗』もまた、動乱の幕末、無政府状態となった京都を舞台に、維新志士が放つ殺し屋たちと、京都守護を担う新撰組たちの、血で血を洗う修羅場を書いた小説である。
 勝海舟の開国論を受け、倒幕のために薩摩藩や長州藩を縦横に渡り歩き、後に英雄と称される活躍を遂げた坂本竜馬、その彼の身を警護するために仕えている剣客朱楽萬次は、新撰組一番隊組長の沖田総司と互角に渡り合える剣術を持っていながら、けっして剣を鞘から抜こうとしない。幕府を倒し、四民平等で誰もが自分らしく生きることができる新しい時代のため、志士に荷担して人斬りをつづけてきた朱楽であったが、尊皇攘夷を唱える志士たちが、けっきょくのところサムライの論理から脱却できず、庶民のことなど顧みもしないという現実をまのあたりにし、人斬りである自分の存在に疑問を感じるようになっていたのだ。そんな朱楽が初天神の夜に出会うことになるのが、岡田以蔵――かつて土佐藩の志士と結託し、ただ人を斬る快楽のためだけに多くの敵を斬りまくってきた男――である。

 しょせん人斬りなど使い捨ての駒と同じ――悩みを抱えたまま戦う朱楽の軟弱さを以蔵は口汚くののしるが、そんな彼自身もまた、長州藩の志士に裏切られ、かつての同志や壬生浪から命をねらわれる駒のひとりであった。

 人の命を奪う、ということ――そのあまりに重い業を背負い、それでも人斬りを続けるのに、正義や倒幕、そして来るべき新時代のためという理想を信じる力が必要なのは、今も昔も同じである。だが、人間が人間である以上、美辞麗句に満ちた理想の裏には、常にどろどろとした欲得や打算がからむものだ。志士たちの掲げる理想もまた、手前勝手な欲望を満たすためのものでしかないことに気づいたとき、彼等の人斬りの業はどこへ向かうことになるのだろう。

 朱楽にとって人斬りを否定することは、身内を斬り殺してまで藩を抜けた自分自身の、それまでの生き方のすべてを否定することになる。だが、志士の権力争いのために、これ以上剣を振るうことは、彼の中にかろうじて残っている良心が許さない。一方で理想も建前もなく人斬りを続けてきた以蔵は、お遊という女性と出会うことで、はじめて一個の人間としての自分に目覚めることになる。だが、悲しいことにこれまでの人生を修羅場の中で過ごしてきた以蔵にとって、ささやかだが平凡な日常というものは、とらえようのない違和感と、このまま自分が駄目になってしまうのではないか、という不安をかきたてることになってしまう。そして、この二人の剣客の悩みは、そのまま自分という人間の存在意義を問うことになる。

 朱楽も、中岡も坂本も、そしてお遊も、懸命におのれの生のなかであがき、何をつかもうとしているのか。幕府を倒し、四民平等の新しい時代とやらか。いや、違う。
 ただ、生きるということだ。彼らはただ、この世のなかの地獄で、懸命に生きようとしているだけなのだ。

 どんなお題目を唱え、どんな建前を振りかざしてみても、人斬りという事実はけっして消えない。志士や幕府の飼い狗として人を斬るにしろ、ただの殺し屋として人を斬るにしろ、人斬りという行為でもって自分の存在意義を確かめるしか道はない。けっしてひらきなおりではない。目の前にある修羅の道を進むしかない自分を認めたとき、そこには薄汚い狗ではなく、雄々しい一匹の獣としての剣客の姿がある。その姿は、無残で傷だらけでありながら、それでいて美しく、誇りに満ちている。

 歴史の表舞台にはけっして姿を見せることなく、時代と時代の境界で剣を振るってきた人斬りたち。その壮絶なまでの生き方は、けっして陋巷の狗などではない、と今は信じたい。(1999.08.11)

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