【角川書店】
『芙蓉千里』

須賀しのぶ著 



 人から頼りにされるというのは、それに応えられるかどうはひとまず置いておくとして、けっして悪いことではない。頼りにされるということは、それだけ相手から必要とされているということであり、またそれだけのことができるはずだと見込まれているからこそ生まれてくる思いでもある。逆に言えば、どれだけ凄い能力や才能を持ち合わせていても、誰からも頼りにされなければ、ただの宝の持ち腐れになるばかりか、その才能を悪い方向に行使することにもなりかねない。誰かに頼られるということ、自分の力が誰かの助けになるという感情は、ときには重荷になることもあるが、ときにその人の生きる原動力にもなりえるという意味で、とても大切なものだ。しかし、だからこそ私たちは、その相手が本当に求めているものが何なのかを見極めたいという欲求にさいなまれることにもなる。とくにその相手が、自分にとって特別な人物であれば、なおさらのことだ。

 私たちが生きる人間社会は、基本的にはひとりでは生きられない弱い人たちが、お互いに助け合って生きていく構造をもつ。そして、そのなかで必要とされる能力といえば、あくまで人間社会をうまく維持していくためのものであって、そこに個性というものの入り込む余地はない。つまり人間社会のなかにおいて、私たちという個はあくまで代替可能なものだと言える。私ひとりがある日いなくなっても、しばらくは混乱するかもしれないが、それでもいずれは落ち着いて、社会は以前と同じように回っていく――その事実についてどのような感情をもつのかは、個人によってさまざまあるのだろうが、他ならぬ自分が代替可能であると考えてしまうのは、やはりどこか寂しいものがある。そしてそんなふうに考えたとき、人間がいだく恋愛感情の本質について、何か重要なものが垣間見えてくる。

 第一次世界大戦期の中国大陸、当時の鉄道交通の要として中国人や朝鮮人、ロシア人、日本人など多くの人種が入り混じって発展した街、哈爾濱(ハルビン)を舞台に繰り広げられる本書『芙蓉千里』であるが、物語としての中心点となるのは「酔芙蓉」(チョイフーロン)と呼ばれる遊郭である。十二歳の少女フミは、ひとつ年上のタエとともに女衒の手によって、日本からはるか離れた異国の地の遊郭に、将来の女郎となるべく連れてこられた者であるが、貧しい農家の口減らしに売られたタエとは異なり、フミは自ら女郎となるべく女衒に売り込み、ほとんど無理やりにくっついてきたという、一風変わった少女として登場する。浅黒い肌に痩せっぽっちの体、まるで小猿のような風貌のフミは、女郎としての価値は一銭も見出せないものの、持ち前の好奇心の強さと、周囲の環境に合わせて即座に自身の有り様を変えていく柔軟な思考は、それまで連れてこられた少女たちには見られない、迸るような何かを感じさせるものがあった。

 どうにかこうにか「酔芙蓉」の下働きとして置いてもらえることになったフミの、一人前の女郎となるための数々の奮闘を描く――それが当初の本書の流れとなるが、同時に、そもそもなぜフミは女郎などという職業にこだわるのか、という疑問もまた、読者を物語世界へとつなぎとめる大きな要素のひとつとなっている。そして、本書を読み進めていくことで少しずつ見えてくるのは、フミという少女を形づくるもの、個人がまぎれもない個人として認識する核となるものの、あまりの希薄さという点である。

 どこでもないところに生きるフミは、たしかにここにある世界を渡っていくために、人並みはずれた特技や、正確な情報といった武器が必要だと信じた。それなのに、いまだ認められずに相変わらずどこにいるのかわからない自分に不安を覚え、挑発に負け、苛立ちを爆発させる。なんてみっともないのだろうと思う。

 フミにはそもそも自分がどこで生まれたのか、誰を父親と母親とする子どもなのかを知らない。物心ついたときには、辻芸人として諸国を転々とする暮らしをあたり前のものとして受け入れていたし、フミに角兵衛獅子をはじめとする大道芸を仕込んだ、彼女が「ととさま」と呼ぶ男も、じつは自分の本当の父親ではないことを知っている。その「父親」も、素姓の知れない芸妓とともに彼女を捨てた。フミの持つ、どんな環境にも容易に染まっていく適応力は、そうした特殊な生い立ちに拠るところが大きいのだが、それは同時に、本来ならば無条件に得られるべき自己肯定――おもに両親の愛情によって得られるはずの、自分がこの世界にいてもいいという感覚を得られないままに生きてきたということでもある。

 そんな彼女の唯一の拠り所となっていたのは、自分の母親は吉原の花魁だったという「ととさま」の言葉のみ。それが、何の根拠もないものに過ぎないとわかっていても、なおそれにしがみつくしかないところに、フミという少女の底知れない空虚さがにじみ出ている。故郷、生まれた国、そして家柄――あらゆるものから自由で、それゆえにどこにも結びつくことのできない根無し草の彼女には、そのために他人や自分を殺してしまうという感情は、まったくの理解の外にあるものだ。

 だが物語が進むにつれて、フミはしだいにもうひとつの、たしかな自分自身のものと言えるものに目覚めていく。自分の体に染みついている芸――まがいものの大道芸であり、生きていくために必死になって身につけたその技は、のちに誰もが魅了される優美な座敷舞として、さらには西洋バレエのように高く舞いあがる、躍動感溢れる踊りとなって、フミを「酔芙蓉」唯一の芸妓へと導くことになる。

 そこにあるのは、何ものにも縛られることのない、自由のための舞いであり、そういう意味においてフミの存在は、遊郭という場にがんじがらめにされているタエをはじめとする女郎たちの対極に位置するものだと言える。そこには過酷な運命に翻弄されながらも逞しく、そして優美に成長していく少女たちの物語がある。だが同時に、何ものにも縛られていない――それこそ、借金もないのに勝手についてきたフミにとって、何かに縛られる、誰かに必要とされるというのは、まぎれもない自分自身を確定させるための手段にもなっている。自由であるという個性と、不自由であるという個性――その二律背反のなかで、はたして彼女がどのようにして、確たる自分というものを見つけていくのか、それこそが本書最大の読みどころである。

「本物は、いつだったひとつだけだ。ただ、そのひとつは、たぶん誰にもわからないだろう。だから何を見ても、少しずつ正しくて少しずつ間違っている。そんなもんだと思えば、どこに行っても、何が起きても、まあなんとかなるんじゃないか」

 まぎれもない自分自身だけを必要としてくれる人、まぎれもない自分自身のものだと言うことができる芸――自分が自分であるための「家」を求めてさすらう少女は、他ならぬ自身の選択によって「酔芙蓉」へとたどり着いた。しだいに激動の時代へと移り変わっていく大陸の街で、はたしてフミがどんな女性へと変貌を遂げていくのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2013.02.09)

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