【光文社】
『古傷』

東直己著 



 とある会社のシステムにかかわる人間として、情報の大切さというものは重々承知しているつもりではあるが、もともとは人員による手作業の簡略化、正確さ、効率化のために導入されたコンピュータが、たんなる情報の蓄積のための道具としてではなく、その蓄積されたデータを多角的に分析することによって、これまでは見えてこなかった新しい情報を引き出すための道具として、その利用目的が変化していったという時代の流れは、コンピュータがあつかう情報が、それだけ多くの人たちにとって価値のあるものと見なされるようになった、ということだと言える。それと同時に、システム部門は蓄積された情報を機密のひとつとして、どのように守っていくかという点についても考えなくてはならなくなったわけであるが、そもそも情報というものは、ただたんに蓄えておくだけでは何の意味もなく、それをしかるべき立場の人間が手にすることができるようになって、はじめて意味を成すものだということでもある。そのあたりの事情について、コンピュータが蓄積する情報よりも、むしろ「インテリジェンス」と称される国際機密にかんする情報のほうが、はるかに先を行っていたというのは、たとえば手嶋龍一の『ウルトラ・ダラー』を読めば見えてくることだ。

 不用意に情報が漏洩し、その情報が悪いことに使われるのは悲しいことであるし、それは何としても避けなければならないことである。だが同時に、ある情報が、本当にそれを必要としている人の手に渡ることのないまま、風化していくのを待つばかりという状態も、それはそれで悲しいことではある。本書『古傷』という作品について、まず目につくところといえば、なんといっても私立探偵である法間謙一の「幇間」としての性格――とにかく相手をヨイショしまくって、いい気分にさせることで必要な情報をたくみに引き出していく、というそのユニークな性格であるが、本書の重要な点は、探偵の性格そのものよりも、むしろ彼と、彼がかかわることになる事件との関連性にこそある。

 人をおだてることに関しては天才的ではあるが、どうにも押しの弱いところのある、私立探偵としてはちょっと頼りないところのある法間のところに、町の有力者として名高い垣根稔から仕事の依頼が入った。今年で九十五歳になる、垣根興業の創始者にして今もなお最高顧問として君臨するその大立者の話によると、最近会社の顧客情報が漏れているらしいので、その真偽を極秘で調査してほしい、とのこと。月々の事務所の家賃支払いにも事欠くような法間にとって、この垣根一族の依頼は何としても逃したくないところであるが、話を聞いていてもどうも要領を得ない部分がある。その理由は、前金とともに渡された封筒にすべて書かれていた。じつは「顧客情報の漏洩」の調査というのはダミーで、垣根稔の本当の依頼はもっと別のところにあったのだ……。

 その気になれば屋敷のトイレまで褒めてしまうという法間の個性とそのおしゃべりは、それだけで滑稽なものがあるのはたしかだが、じっさいに相手を褒めるというのが思った以上に難しいものであることは、「読んだ本はみんな褒める」などという方針でサイトを運営している関係上、私もよく知っているつもりである。そして本書における法間のおだて言葉の本質は、たとえば相手の身につけている衣服やアクセサリーにかんするブランド名を言い当て、その趣味の良さを褒める、という点に尽きるものだ。そのためには、高級ブランドについての造詣が深くなければならないのは当然のことだが、法間のこの「幇間」としての能力の高さは、他の人たちであればとくに意識することもない、こまかい部分――しかし、当人はさりげなく意識している部分を見抜き、それを大いに刺激する能力だと言い換えることができる。

 常人であればついつい見逃してしまいがちな、ちょっとした情報にめざとく目をとめる洞察力というのは、探偵役の人間には必要不可欠な能力であり、そういう意味で、法間は間違いなく探偵としての能力をもつ者であるが、相手から情報を引き出すことを得意とする彼の受けた表向きの依頼が、情報漏洩にかんするものだというのは、何とも皮肉なことである。なぜなら、情報漏洩というのは隠したいと思っていた情報を引きずり出すという意味があるのに対し、法間は基本的に、相手が意図していない情報や、意識とは裏腹の言葉をあえて引き出すようなあくどさとは無縁の性格だからである。彼はあくまで「幇間」であり、そうである以上、彼にできる唯一にして最大のことは、ひたすら相手をもちあげることでしかなく、それは逆にいえば、相手の機嫌を損ねるようなことはできるだけ避ける、ということでもある。しかし、彼のそのいかにも下手な態度が、今回の垣根稔からの真の依頼にとっては非常に重要な意味をもつことになる。

「そう、物凄い大企業があるとして、その、そもそもの設立の時の資金は、どこから来たんだろうか。――(中略)――なにかこう、後ろ暗い、犯罪、のようなもの、裏切り、のようなものがあるんだろうな、と思ってね」

 垣根稔の真の依頼内容は、彼自身の自叙伝の筆記を依頼する予定である文筆家、岩井雅穂が本当に信用できる人物であるかどうかを調査してほしい、というものだった。だが、垣根稔のそれまでの人生を嘘いつわりなく書いていくとなれば、そこには日本の戦後史における暗い闇の部分を暴露するに等しいスキャンダルを引き起こす可能性がある。当然、垣根稔の個人的願いを邪魔しようとする勢力が動くことになる。物語は急にスケールの大きなものとして展開していくことになるのだが、基本的に相手のいちばん望むことをヨイショする、ということに命をかけている法間にとって、自叙伝を書くという行為は、それが垣根稔の最大の望みであるなら、法間としてはそれを最大限ヨイショせずにはいられないし、その邪魔をする者がいるとすれば、放っておくわけにもいかない。このあたりに、法間の「幇間」としての矜持を感じとることができるのだ。

 思いがけず大きな陰謀の一端に巻き込まれることになった法間は、はたして垣根稔の願いを叶え、幇間探偵としての面目を守りとおすことができるのか? その滑稽な私立探偵の言動とは裏腹に、人の死とともに永遠に失われていく情報に対して、その情報をすべて白日のもとにさらけ出したいという願望と、なんとしても闇の中に葬りたいという願望のせめぎあいという、人間の後ろ暗く、それゆえに物悲しい性をにじませる本書をぜひ楽しんでもらいたい。(2007.01.13)

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