【竹書房】
『世界でたったひとりの子』

アレックス・シアラー著/金原瑞人訳 



 たとえば、今の私にとっての過去とは、たんに過ぎ去ってしまった時間の集積であり、それ以上の意味をもつものではない。もちろん、過去をないがしろにしていい、などと考えているわけではないのだが、過去の出来事に縛られてしまうよりは、今と、未来とに目を向けて生きていたい、というのが正直な気持ちであることはたしかだ。そして、そうした気持ちが生じているのは、今の自分が、まだ自身の現在と未来に対して何かをなすことができる、つまり、自分の人生はまだまだこれからだという意識と、それを支えるだけの若さをもっているからこそのものでもある。

 しかし、身体の機能は年とともに衰えこそすれ、盛り返すようなことはなく、もしこれからも生きつづけることができれば、いずれ残された未来と積み重ねてきた過去との比率は逆転する。そのとき、私にとっての過去はどんな色合いを帯び、どのような意味をともなってくるのだろうか、とふと考えることがある。

 人間はけっきょくのところ利己的な生き物であり、最終的には自分のことを一番可愛く、大切に考えている、というのはある意味で真理を突いてはいるが、それでもなお、もし自分に残された人生が短く、そしてその短い時間で何かを成すのに、肉体的にも精神的にも衰えてしまっているようなとき、自分よりも若く、未来もあるであろう若者たちに、希望をたくすことを夢みるかもしれない。少なくとも、もし自分に息子や娘が、さらに孫といった存在がいたとしたら、彼らの未来を自分よりも大切にしていたい、という気持ちがあるいは生じるのかもしれない。そしておそらく、それこそが有限の命をもち、自我を確立した人間という種の、あるべき姿なのだろう。

 今回紹介する本書『世界でたったひとりの子』という作品について、まず述べておかなければならないのは、そこが上述したような前提がことごとく崩壊してしまった世界である、という点だ。科学技術が発達した未来において、人々はガンや脳卒中といった数々の疾病を医学の力で克服し、さらに40歳になったら無料で提供される老化防止薬によって、その後何十年もそのときの状態を維持したまま生きていくことが可能な世界――じっさいには100歳以上であるのに、見た目は40代の肉体を維持できるというその世界では、しかしその代償というべきなのか、人々の生殖機能が破壊されるウィルスが猛威をふるっていた。

 子どもの出生率が極端に低下し、教育や玩具をはじめとする産業が大打撃を受けたりと、さまざまな方面で影響が生じるなか、もっとも大きく変化していったのは、子どもの価値の急激な高騰である。今や子どもは、誰もが手に入れたいと願う希少価値のある宝物であり、まさに「金のなる木」なのだ。運良く子どもを授かった家族は、産まれた子どもを、彼らで一儲けしようとたくらむ悪人から守るため、まるでかごの中で育てる小鳥のような生活をさせざるを得なくなった。本書のなかの数少ない子どもたちは、以前とは比べものにならないほどの不自由さのなかで生きなければならなくなっていた。

 つまり、こういうことだ。子どもと子ども時代がこの世でいちばんめずらしく、貴重なものになってしまったために、子どもたちはほとんど耐えがたいほどに不幸で、孤独で、恐怖に身を震わせているのだ。

 物語の主役である少年タリンは、ディートという男と町から町へと渡り歩きながら暮らしている。ディートはその昔、タリンをトランプの賭けで手に入れた保護者だと言い張り、タリンを金儲けの手段として――子どものいない裕福な家庭に、決められた時間のあいだ貸し与える商売の道具としてタリンを利用していた。タリンはディートに言われるままに指定された家を訪れ、言われるままに「男の子らしい子ども」の役を演じつづける。子どものいない人たちに、その感覚がどんなものなのかをつかのま、味わってもらうための、時間貸しされる子ども――だが、そもそもタリンは本物の少年なのだ。にもかかわらず、相手が望むような少年を演じ続けなければならないという、ある種の倒錯した皮肉が本書のなかにはある。そして、そんな不健全な要素を増長させるものとして、PPインプラントというものがある。

 PPインプラントの手術を受けると、子どもはその時点からまったく年を取らなくなる。つまり肉体的な成長が止まってしまうのである。老化防止薬のように老化を抑制するのではなく、完全に成長を止めてしまうこのPPは、今では法律で禁止されているが、それでもPPを受ける子ども、PPを受けさせようとする大人は後を絶たない。そして本書の世界のなかでは、成長を止めた子どもたちが一種のスターとして脚光を浴びている。体は子どものままなのに、心はすでに老成しているという、きわめてアンバランスな存在――そして、タリンの子ども時代があと数年で終わってしまうことを知っているディートは、タリンにPPインプラントの手術を受けるようにしきりに勧める。

 自分以外の子どもたちと接することはもちろん、見かけることすらめったにない、見かけたとしても、そのほとんどがPPを受けた見た目だけが子どもという環境のなかで、タリンがどれほど孤立した存在であるかは、想像に難くあるまい。唯一よく知っているディートは、しきりにタリンのことを気にかけているというポーズをとるものの、それはあくまでタリンが資本だからで、けっしてタリンという個性を尊んでいるわけではない。子どもであるという、ただそれだけのことがこの上なく目立った特徴となってしまうこの世界のなかで、ただでさえ選択肢の少ないタリンをさらに追いつめていくように物語が展開していく本書は、それだけでも緊迫したものがあるのだが、それよりも重要なのは、本書に登場する人々が、いずれもこのうえなく利己主義的な精神の持ち主として描かれている、という点である。それは、ディートのようにあからさまな者もいれば、後にタリンを買い取ることになる金持ちの夫婦のように、いっけんすると人格者のように見える者もいるが、じつはいずれも考えているのは自分のことばかりであり、まるで「自分以外の誰か」などはじめから存在していないかのような振るまいを見せるのだ。

 そう、本書全体を満たす雰囲気は、まるですべてが薄っぺらい偽物、作り物めいた居心地の悪さである。そしてその最大の要因は、人々が「老い」を退けてしまったという一点に尽きる。もし、みんながいつまでも若いままでいられるとしたら、いったい誰が自分以外の人間に、想いや希望を託すだろうか。タリンという存在は、人から人へと受け継がれていくものが途絶えてしまった世界で生きることを余儀なくされた子ども、子どもという存在価値の高騰によって、逆にその個性が潰されてしまった子どもなのだ。そしてそんな世界において、タリンがありのままのタリンでいてほしいと思うものは、あまりにも少ない。本書はある意味で、タリンのアイデンティティ獲得の物語であり、物語のラストを見るかぎりにおいて、その試みは成功しているかのように見える。だが、にもかかわらず、全体の雰囲気がどこか世紀末的なのは、老いの克服によって蔓延してしまった利己主義の風潮が、けっきょくのところ何の解決も見せていないからに他ならない。

 本書の世界では「老い」は克服されたものの、それでもなお「死」までも克服されてはいない。人はいずれ死ぬという運命からは逃れられないのだ。にもかかわらず、自分の子孫を未来に残していけなくなった人々は、いったい何のために生きていけばいいのだろう。ディートが本書のなかで口にする「世界の復讐」――いずれ消えていく自身の個性への興味が失われていく世界で、それでもなお個性を求めていくタリンの存在は、それ自体がこの上ない皮肉として、本書のなかでは機能していると言える。はたして、本書のなかで展開していく世界に、どのような救いがあるのだろうか。(2006.11.26)

ホームへ