【河出書房新書】
『ハル、ハル、ハル』

古川日出男著 



 アウトローであることと、移動するということとは、分かちがたく結びついている。アウトローであるということは、人間社会を形成する法の外にある、ということ。法の存在が、その人の行動の抑制につながることのない無法者は、それゆえにその社会においては異端であり、長くその場にとどまることを社会が許さない。逆にいえば、ある場所で長く定住しつづけるためには、法を遵守し続けなければならない、ということでもある。結果として、アウトローは同時に放浪者であり、移動することそのものが彼らにとっての生活となる。

 私はここで「法」という言葉を使ったが、人をその社会におけるアウトロー、あるいはマイノリティ的な存在に貶めるのは、何も法だけではない。法では規定できない一般常識や因習といった、その社会に定住する多くの人たちが共有していると思われているある種の価値観――彼らにとっては理解できるものの考え方もまた、ときに人々の行動を大きく制限するひとつの因子となる。たとえば、同性愛というのは法で禁じられているわけではない。だが、大半の人は異性を愛するのが普通であり、同性愛というのは言ってみれば、大半の人たちにとって理解の外にある概念だ。異性愛が常識として人々に浸透している社会のなかで、同性愛者が生きていくのにしんどさを感じてしまうのは必然であり、彼らは少なくとも同性を愛するという点においては不自由さをかかえている。

 その社会が規定するさまざまなもの対する不自由さ、何か束縛されている感覚というのは、誰もが大なり小なり抱えているものだ。人はけっしてひとりでは生きていけない。だからこそ人々は集団となり、そこに社会が形成される。だが同時に、私たちはそうした社会に不自由さを感じ、そこから逃れたいという欲望もかかえている。あるいは私たちは、知らないうちに社会に飼いならされて、自分が本当に望んでいるもの、やるべき事柄を見失っているのではないか――古川日出男の作品には、そうした既存の社会に対する叛逆というテーマが強いのだが、今回紹介する本書『ハル、ハル、ハル』は、とくにそうした要素が色濃く出ている短編集だと言える。

 まずは踊りとは何かを定義することよ。これは概念の話だな。つまり日常の身ぶりがあるでしょ? それは日常なの。でもそこから逸脱する動きがあるとしたらね、たとえば片足あげてピョンピョン跳ねながら通学したらね、ヘンでしょ――(中略)――それが踊りよ。社会から逸脱するもの。(『ハル、ハル、ハル』より)

「この物語はきみが読んできた全部の物語の続編」だという前口上からはじまる『ハル、ハル、ハル』は、三人の登場人物が東京首都圏から千葉県の犬吠崎へと向かうロード・ノベルである。そしてこの三人の登場人物は、それぞれが家族という単位において大きな問題をかかえている。言ってみれば、誰もが世間における幸せな家族という形から逸脱した存在、ということになる。たとえば、親に捨てられた子ども、あるいは、妻と子どもに逃げられた父親、もしくは、家出を繰り返す少女――それぞれに複雑な家庭環境があり、結果として既存の家族としてあるべき形が崩壊した不幸な存在だと言えるが、問題なのは彼らがこれまで経てきた過程ではないし、むしろ彼らは、社会が押しつけてくるさまざまな価値観を、進んで逸脱していこうとするような節さえある。

 家族というこれまでの単位を捨て、また社会の構成員であるあらゆる要素を否定し、ただ個人のあるがままに生きようとする姿は、人間というよりは、むしろ獣に――純粋な動物としてのそれに近い。こうしたテーマ性は、たとえば同著者の『アビシニアン』『サウンドトラック』などにも見られるものであるが、そんな彼らに共通するのは、けっして理屈で推し量ることのできない生のエネルギーに溢れている、という点だ。そしてそれゆえに、ときに彼らの行動は残酷な結果を生むことにもなるのだが、そこに嫌悪感が皆無なのは、彼らにとってそれが純粋に生きることと直結しているからに他ならない。

 だいたい他人はいないんだと晴臣は答えている。おれには家族がいたから他人がいて他人がいたから弟がいた。でも家族が消えたら他人は消滅だ。境界線がゼンメツだ。消えたんだと晴臣は思う。(『ハル、ハル、ハル』より)

 そして彼らは移動する。彼らを止めるものは誰もいない。この移動という要素は、『8ドッグズ』のなかにも踏襲されている。もっとも、この作品の場合は逆に、千葉県の南房から首都圏へと向かう。「南総里見八犬伝」の要素をあちこちにちりばめたこの短編では、ひとりの男の熱に浮かされた脳内会話を丸写ししたかのような文章がつづく。まるでまとまりのない、体言止めの多用される文章。その脈絡のなさのなかに、マグマのようなエネルギーを乗せて、物語はある時点から猛烈な勢いで移動を開始する。

 アウトローであることと、移動という要素――そんな要素が織り成す暴力に巻き込まれた形をとるのが『スローモーション』であるが、その語り手であるフブキは、そもそもの最初から既存の日記の書き方を逸脱した「日記」をつけるという形で、すでに世間から逸脱する要素を含む存在だ。そして彼女は、アウトローによって壊れたものを取り戻すために、自らがアウトローとしての道を突き進むことになる。ともすると、筒井康隆のブラック・ユーモアを髣髴とされるその物語では、正気と狂気の境界線があいまいな、原初の混沌とした雰囲気がしだいにその強さを増していくことになる。

 アウトローになるというのは、それまで信じてきた価値観をすべて捨てるということであり、それは未知の世界へ飛び出していくのと同様に、ひとつの恐怖でもある。しかし、それゆえにこそ、社会を逸脱していく者たちの秘めているエネルギーは大きく、ときにそのエネルギーの大きさに私たちは圧倒されてしまう。自分たちを縛るあらゆるものを後方に置き去って、ひたすら純粋に、まぎれもない自分自身でありつづけるために疾走する本書の登場人物たちの姿は、無秩序であり、また美しくもある。その疾走感は、きっと多くの読者に忘れていた何かを呼び覚ますことになるに違いない。(2008.02.03)

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